朝はまだ来ない



 世界で一番うまいものを、世界で唯一オレだけが好きなだけ口にすることが出来る。
 そのご馳走の持ち主が、愛おしげにオレの名を呼んで言うんだ。
 先生、オレを食ってよ。


「はぁ……ん、ふっ……んく、んん……」
「……せ、んせ」
「ヒロ、……あぁ、ヒロ……」

 ごくんと飲み干した喉越しと鼻を抜ける芳醇な香りに、意識はぼんやりと霞掛かる。砂糖や蜂蜜、花の香りとはまったく違う。この世に同じ味も匂いもきっとない。これはヒロが、オレのためだけに差し出してくれた味だ。たとえ他の人が――他の吸血鬼がヒロの血を飲んだってこんなにうまく感じられるはずがない。あまくて、どんな酒よりふんわりと優しくまろく全身を巡って神経を根こそぎ蜜漬けにしていく。トロトロに蕩けた身体の全部が、この血が一番だと教えてくれる。
 ああ、この感覚を書に走らせることが出来れば。
 いくらでも筆は踊る。白い紙を縦横無尽に、奔放に、力強く描けるだろう。それでもこの感覚の全てを形に留めることは出来ない。惜しいと思う気持ちも、この想いをただオレだけが抱えていられる優越感も、どちらも捨てがたい。
 寝転がったヒロの上に跨ってオレよりは少し、ほんの少し逞しい身体に牙を突き立てる。痛みを唾液のまやかしで誤魔化しても、ヒロがすべてを受け入れてくれていても、毎度その瞬間は恐ろしかった。傷つけるオレがこうなのだから、ヒロだってきっと何度か怖いと思っているはずだ。それが人として真っ当な反応だし、オレだってヒロの立場だったらやっぱり怖いだろう。もし、何らかの要因で痛みの麻痺が出来なかったら。止血が、治癒が働かなかったら。自分の身の安全を思案するのは、人間として正しい思考回路だ。
 だけどヒロは一度だってオレを疑うようなことは言わなかった。思えば最初から、ヒロがオレの吸血を拒んだことはなかった。初めて、唇を噛んで血を舐めとったあの日でさえも。
 ヒロの手は今日もオレの腰をゆっくりと撫でている。牙を埋める瞬間は背中の甚平を握られている感覚があった。痛みはなくても、皮膚を破って肉に異物が刺さる感覚自体はなくならない。ヒロは「虫歯の治療みたいだ」と言った。乳歯の頃、奥歯を治療したらしい。その違和感を通り過ぎれば、ヒロは自由だ。腰骨の上辺りに座ったオレの背中や腰をゆっくり、ゆっくり、大きな手が撫でている。
 あやすみたいだと思ったのはヒロがオレを好きだと言い出したその日まで。あの日から、手のひらは優しいだけではなくなった。甚平の裾から中に来ているシャツを掴み、焦らすようにゆっくり引き上げようとする。そのうち乱れた裾から背中が覗いて、ヒロの手は悠々とオレの背中を満喫した。少し窪んだ背骨の上を指の腹がなぞって、こいつの手の皮が厚いことを知った。肌を味わうように押し付けられた手のひらは肉づきを確かめるようにやわく蠢く。指先が柔らかな皮膚を掠めて、オレの下でヒロが身体を揺らした。

「先生、やっぱり少し太ったぞ」
「ん、ぐっ! げほっ! ……お、お前なぁ!」
「だってほら、ここ」
「わっ、バカ! つまむな!」

 ヒロは頬を淡く染めて寝ころんだまま、熱い息を吐く。「先生」と笑うその口から見える舌の赤さに、知らずゴクンと喉が鳴った。少しだるそうな表情。薄暗い部屋の中でも煌めきの消えない濡れた瞳。どんなに痛みを和らげても、血は飲めば減る。ヒロは今、全身のだるさを感じているはずだ。申し訳なく思わなければ。気遣わなければいけない。それなのに、オレはこんな状態のヒロにさえ「うまそう」だと感じていた。
 熱っぽい目に見られていると体温が急に跳ね上がって暑くて仕方がないし、薄く開いた口から見える舌が欲しくて堪らない。脇腹を撫でながら上へ下へ這い回る手のひらはオレの中の何かを操っているみたいで、ムズムズして腰が浮いた。

「先生、こっち」
「……あぁ」

 まだ噛みついた傷が塞がりきっていない。一舐めして舌いっぱいに乗せた唾液を押し付けると、ヒロの誘うまま唇を重ねた。背中を撫でる手は止まらないまま、もう一つの手は後ろ頭を撫でてからオレのうなじに掛かる。唇を押し付けて瞼を下ろせば、舌の絡み合う音が頭の中いっぱいに反響するようで身体が震えた。

「ふぅ、ん……はっ……」
「……先生、もう」
「ま、待て。傷が、まだ……んっ」

 キスの合間にヒロの手が下肢へ伸び、慌ててその手を止めながら抗議したが口を塞がれてまたぞわりと身体が震える。ヒロの手は無理強いはしない。がっつくくせに、年下のくせに、ヒロはそういうところばかりオレよりずっと大人で参る。優しくされるたびに分かりやすく絆されるオレは形無しだ。
 ずきずきと脈打つ感覚は確実にオレの方にも来ていて、多分ヒロはもっと苦しいだろう。それでもオレが止めれば一応、下りた手は内腿をじれったく撫でるだけで肝心の部分には触れないでいた。ホッとするが、同時に腹立たしくも思う。勝手だな、と思うので言わないでおいた。
 血を吸うとき、最初からヒロが落ち着かない様子なのは分かっていた。そりゃあ恐ろしいだろうと思っていたがそうではないらしい。舐めたり吸ったり、そういうことが「そういうこと」のように感じられるのだと言われた。初めてキスをした後のことだ。
 オレはたいそう驚いた。オレが感じていたあの甘美な匂いに近しいものを、ヒロが感じていたらしいのだ。オレよりずっと即物的だとしても、理性が擦り切れそうなほど夢中になるあの感覚だって相当なものだから似たり寄ったりだ。それで夢中になって血を飲んでいるオレに比べたら、ヒロはずっと我慢強い方だった。
 オレの制止に従って、ヒロの手はゆるゆると太ももの裏を撫でている。くすぐったさとむずがゆさは続いていたが、身じろぐたびに時折掠める感触に身体が震えた。それを受け入れる前に、まず、ヒロの傷をきちんとふさぐのが先だ。
 もう止血は出来ていて、ゆっくりと塞がっている傷口へ舌を這わす。もう血の味はなくて、ただ、ヒロの味と匂いだけを舐めた。あの甘い匂いはまだ続いている。多分、もうずっとこのままだ。

「……よし。ありがとな、ヒロ」
「ああ。もういいか、先生?」

 ヒロは優しいんだろう。本気で伸し掛かられたらきっとオレは力負けするだろうが、ヒロに無理強いされたことは一度もない。多少強引にキスをせがまれたって、それは本気で拒んだことがないせいだ。無言の肯定を汲んだに過ぎない。恥ずかしくて言える訳がないが、言わなくてもそれくらいはお互い分かっている。
 だからこの確認が、ただの優しさでないことも分かっていた。もちろん、供血の対価を求めているのでもない。ヒロはただ確認しているだけだ。しっかりしているようでまだ子どものこの男は、まったく本当にずるい。可愛い、と思ってしまうこちらの内面もお見通しなんじゃないだろうか。

「今日もお前は美味かったし、いい匂いがする」
「……うん」

 その一言に甘ったるい安堵が滲んでいて、オレはたまらず唇を重ねた。
 可愛い、と思う。いつも誰かに頼られるばかりのヒロが、いじらしい背伸びをしている様子が愛おしくてたまらない。
 好きとか、そういう言葉はうまく口には出来ない。それでもヒロが嬉しそうに笑うから甘えてしまう。逃げを打つ後ろめたさも加味して、この後に乗せるのが関の山だ。
 下着をずらし始めた手に気を取られながら、息を乱して首筋を舐めた。ここから朝までは、しばらくヒロの番だ。





(2014.10.25.)