夜はまだ長い



 春から夏へ移り変わろうかという頃、この人は島へやってきた。偉い書道家を殴り飛ばしたとかで、島流しになったらしい。いい大人のくせに子どもたちと一緒になって全力で遊んだり張り合ったり、どこか世間知らずな彼はその手のかかる姿が世話焼き気質の村人には合ったのか、今ではすっかり郷の一員だ。何だかんだ言っても彼は手に職をもって一人で稼いでいるいっぱしの大人であり、実際、芸術家故の理解しがたさはあっても、やっぱり彼は天才で、努力家で、オレなんかには分からない苦労をしているらしかった。その苦労を苦労とは思っていないところが、彼らしいのかもしれない。

 そんなことを考えて、オレはぼんやりと天井を見上げている。もう何度目かになるこの景色も、このけだるさも、不思議な気持ちも、どうしたって慣れることは出来ない。先生がこの島にいることはすっかり慣れてしまったのに、先生がこうして自分の上に馬乗りになっていることは、何度やられても慣れることなんて出来なかった。

「んっ……ふ、んん……っ」

 耳のそばでぴちゃ、ぷちゅ、と濡れた音が続く。それから、ごくんと鳴る喉。
 寝転がったオレの上に跨って、若手イケメン書道家の青年がオレの首筋に顔を寄せて一心不乱に舌を這わせていた。飲みにくいのか、座るというよりは折り重なって寝そべるような体勢で、先生の手はオレの肩と頬に添えられている。手は洗っても、染みついているのかもしれない。墨の匂いが、たまに鼻先を掠めていた。
 生暖かく柔らかい先生の舌が、何度も何度も首や肩をなぞっていく。舌先を押し付けて、濡らして、舐めて、吸う。唾液に滑る唇がそのたびにぴちゃ、とかぷちゅっ、とか音を立てて、オレは堪らず天井の木目を数えた。ふ、と合間合間に先生の吐息が濡れた肩を掠めて、それだけで木目の数は分からなくなった。

「んう……ちゅ、んん……はぁ。……うん」

 ゆっくりと身体を起こした先生は、どこかうっとりとした表情でオレを見下ろす。寝転がったまま、ほんのり上気したご機嫌な先生を見上げるオレは、ぼやけた意識と身体の反応は別々なんだと毎度のことながら思い知っていた。

「やっぱりヒロの血が一番うまい」

 濡れた唇に指をあてて、先生は愛おしげにオレを見つめる。正確には、先生の好きな血を持っている、オレを。
 東京からやってきた半田清舟は、吸血鬼だった。



 先生が島へ来て何度目かになる徹夜疲れでの昏倒を発見したオレは、驚き呆れつつも先生を布団まで担いで運んで、介抱した。熱がないか、倒れた拍子に頭を打ってこぶをつくってないか。血の気の失せた先生の額や頭に手をすべらせて、飲み物を用意して。この調子では、持ってきた食事はおかゆか煮込んだうどんに変えてやった方がいいだろう。そう思って腰を上げようとしたオレの腕を、苦しげな表情の先生が掴んでいた。

「目ぇ覚めたか、先生。また無理して、しょうがねえなあ。気分どうだ? なんか食べられそうか」
「――ヒ、ロ」

 喉が掠れて、妙な声で先生がオレの名前を呼んだ。みんながヒロシ、ヒロ兄と呼ぶオレを、先生だけがヒロと呼ぶ。
 先生はうまく声が出ないようだった。乾いた唇が何度か震えて、苦しそうなまま、オレの目をまっすぐに見つめる。苦しそうなのに、目だけがゆらゆらと光っていた。寝かせるために部屋の明かりは付けていなかったから、背後の居間から入る光しかないはずなのに、先生の瞳は見たことのない色で輝いて、オレを射抜いていた。
 オレの腕をつかむ手が、震えていた。強い力で握っている、つもりなのだろう。先生はオレに何かを言おうとしていた。戸惑ったまま、先生の手に自分の手を重ねて、顔を近づける。

「どうした、先生。水なら今、持ってくっけん」
「――ご、めん」

 そう言った先生が、泣いた。
 目尻を伝った涙があとからあとから溢れて、少し伸びた黒髪に零れていく。
 驚いて固まったオレのうなじに先生のもう一方の手がゆっくりと伸びて、それから、スローモーションのように静かに抱き寄せられていた。先生は苦しそうなままオレの唇を舐めて、そうして一度躊躇ってから、噛みついた。
 唇を噛んだのだ。ブツ、と確かに唇の切れる音と感触がした。なのに、少しも痛みがなかった。まるでオレじゃない何かを噛んだのかと思うくらいに。驚愕と困惑で頭が真っ白になって、オレは何も出来ないまますぐ目の前にある先生の悲しそうな顔を見ていた。近すぎて、焦点が合わないくらいだった。
 先生はボロボロと泣きながら切れたはずのオレの唇を何度か舐めて、それからゆっくりとオレを解放した。オレを離した腕は、先生の顔を覆う。腕で泣きぬれた目を隠して、片手は震える唇を隠していた。離された間際に覗いた先生の唇は、赤く濡れていた。
 血だ。何の匂いもしないのに、そう思った。


 ごめん、本当にごめんと何度も何度も頭を下げられて、オレは訳が分からないまま、よく泣く人だと思った。涙は枯れることを知らないように俯いた先生の膝を濡らしていく。
 本当はずっと隠して暮らしていたらしい。普通の食事からも栄養は十分取れるし、それに人を襲うのは抵抗があると彼は言った。お話の中にあるように、人間を食料と見なしている訳ではないらしい。

「化け物には違いないだろうけど、それでもオレは、……本当はこんなの、嫌なんだ」

 誰かを傷つけてまで血を飲みたいとは思わない。吸血鬼の本能が求めても理性で抑えればいい。
 そうして先生は今までずっと我慢してきた。体の具合が悪いときは見かねた親に血を飲むよう言われて、母親の指から血をもらっていたそうだ。学校で具合が悪くなって二、三回は川藤からもらったこともあると先生は言った。あの人も、今日のオレのように偶然具合の悪い先生に出くわしたのだろう。中学時代からの縁だそうだから、当然と言えば当然か。少し、胸がつまった。

「本当に悪かった。謝って済むことじゃないのは分かってるけど、でも」
「今はもう平気なのか?」
「……まあ、何とかな。あとは安静にしてれば、大丈夫だ」

 一瞬肩が跳ねて、先生は俯いたまま視線を横へ逃がした。呆れるほど嘘の下手な人だ。
 重苦しい沈黙が落ちた。何も分かっていないオレに掛ける言葉なんて見つかる訳もなくて、先生は腕で涙を拭うとそれきりじっと押し黙っている。
 具合が悪くて吸血衝動が抑えられなくて、そこでオレが来たから。それだけだ。先生は平謝りだけど、今のところ自分の身体に異変は感じない。貧血だとかめまいだとかもなければ、痛みも出血もなかった。
 そう。血は出ていないのだ。確かに噛み切られたはずの唇は、自分で舐めてみた限りではどこにも傷一つなくて、さっきのあれは夢か何かだと押し切られれば納得してしまうかもしれないくらいだった。
 聞きたいことは色々あって、とにかくオレは、先生を宥めなければと思った。訳の分からないまま帰れないし、憔悴しきった先生を置いてはなおさらだ。

「あ、あのさ。お母さんからもらうときは指、だったんだろ。川藤さんは?」
「……もらう、ときか? 指だよ。傷の治りもいいから」

 泣きはらした目で顔を上げた先生は、いたずらを叱られる子どものようにおびえた様子でそう言う。それから、吸血鬼の先生の唾液には痛みを麻痺させたり、傷をふさぐ作用があるのだと言った。まず舐めて痛みを感じさせないようにして、それから血を吸い、また傷口を舐めればきれいに塞がるのだという。相手が痛みで暴れては吸血しにくいし、一度の吸血で死ぬほど吸うことはないそうで、大昔、他人から吸血していた時代には寝ている間にこっそり吸血するには、傷跡を隠す必要があったからそのせいではないか。言い伝えだし、誰か研究してる訳でもないから分からないけどな。気まずそうに説明した先生は、ため息をついた。

「オレは母さんみたいに決まった相手がいないから、極力我慢してきたんだ。こっちには母さんも川藤もいないしな」
「決まった相手って、先生はお母さんから貰ってるんだろ?」
「それは困った時だけで、母さんは父さんからちゃんとこまめに吸血してるんだ」

 先生の吸血鬼の血は母方のものらしい。そういえば一度島に来た先生のお母さんは異様に若かった。聞けば、先生が学生の頃からちっとも姿が変わっていないのだそう。それが吸血行為のためかどうかは分からないと、先生は言った。
 オレが普通に尋ねるせいか、先生の口調はいつもの落ち着いたものに戻ってきていた。これからどうするのか、本当に体調は悪くないのか。尋ねることはたくさんある。言いたいことも。だけど、まだ混乱したままのオレの口から出たのは、もっと別の――もしかしたら、相当くだらないかもしれないことだった。

「なんで、その、口だったんだ? さ、さっきの」
「あ、いや……わ、悪い。すまん。本当に」
「そうじゃなくて! 責めてるんじゃ、なくて」

 なんでだ、と頭の中でもう一人の自分がつっこむ。なんで怒らないんだ。ファーストキスだったのに。唇を舐められて噛みつかれたのは、キスの内には入らないかもしれないけど、でも、あんなの初めてだった。怒ったっていいはずだ。
 だけどオレは、必死に先生を宥めた。びっくりするくらい優しい声で、頭の中のパニックと裏腹に、おそろしく甘ったるい声音で先生に尋ねる。向かい合って座っている先生の頬に、手を伸ばしていた。

「なんでオレは、指じゃなかったんだ?」
「だって、お前の指は……」

 涙が何度も伝った頬は少し跡になってかさついていた。鼓動が指先まで響くみたいに、小さく震える。
 先生は、頬に触れるオレの手を見て、また泣き出しそうな顔をした。

「料理人になるんだ。大事な手に、傷つけられないだろ」

 ぞわりと、全身が総毛立ったのを覚えている。腰から背中を駆け抜けて、脳天まで。
 何かがものすごい速さで駆け上がっていく。たぶん、それからずっとオレの中で膨らんでいく大元が。
 先生の頬から手を離したオレは、深呼吸してから席を立つ。先生の視線を感じながら台所へ入って、震える手で包丁を握った。

「――ヒロ?」

 怯えた声。
 先生、オレは先生を責めたりなんかしないよ。化け物だなんて思わない。先生が化け物みたいにすごい人なんだってことは、もうずっと前から知っている。
 振り返ったオレは、包丁を手に先生の前まで戻って、膝をついた。

「足りないんだろ、先生」
「……そ、そんなことない。メシ食って、寝てれば」
「真っ青だぞ、先生。病院担ぎ込まれたら、書道出来なくなるんだぞ」

 震える手で、怯えた様子の先生の手に包丁を押し付けた。オレの真意に気付いて嫌々と首を振る先生を無視して、ゆっくりとその手を持ち上げていく。

「ヒロ、やめろ! やめろって!」
「血、止まるんだろ。先生が舐めてくれたら、治るんだろ」

 だったら、先生。
 ガタガタ震えながら、包丁はオレの首に近づいた。

「オレが血ぃ分けてやるよ。先生」



 眠っていたらしい。たぶん、五分かそこら。先生はまだオレの上に跨ったまま上機嫌だ。
 結局、包丁で首を切ろうとしたオレを先生は泣きながら殴り飛ばした。大泣きした先生に死ぬ気かと罵倒されて、ぼこぼこに殴られた。冷静になって考えてみれば、それまで先生は指を少し切るくらいで何とかしてきたのだ。首を掻き切るほどの量はいらないのだろうし、そもそも首を切る前に先生に舐めてもらわなければ痛みで死ぬかもしれない。あのときのオレは相当混乱していたんだろう。思い出すと恥ずかしい。
 傷が治るのだとしても傷つけたくないと言って、先生といくつか吸血場所を相談した結果、やはり古典的な首筋が一番効率がいいだろうということで決着がついた。血が出やすく、口をつけやすく、血の量も調節がしやすい。夕飯の後に時々血を飲ませるようになって、先生が倒れることはすっかりなくなった。徹夜で突っ伏していることはあるが、それはただの睡眠不足だ。吸血でどうにかなるものではない。自業自得だ。
 最初は後ろから噛みつかれていたが、しばらくしてオレは正面からにしてくれと頼んだ。理由は、先生の視線がオレの身体へ向くからだ。それから何度か座っているオレの前から飲んでもらっていたが、結局、今の寝転がる体勢に変えてもらった。痛いのか、やっぱり気持ち悪いかと心配する先生を宥めるのが大変だった。

「よし、もういいぞ」

 何度かオレの首筋を眺めて、うんと先生は頷いた。今日も傷口はきれいさっぱり塞がったのだろう。相変わらず、痛みもなければ痕も残らない。寝てる間に吸われたら気付かないだろう。
 身体を起こしたオレは、横に避けていた掛布団を引き寄せて腹から足へ掛けた。掛布団はもう冬掛けに代わっていた。朝方は冷えるようになってきたから、先生もこの布団に包まって寝ているんだろう。そう思って、それから頭を振った。
 寝室から出た先生は温かいお茶を入れて戻ってきた。何度も使わせてもらっている湯呑みを吹き覚ましながら、近くに座った先生の横顔を眺める。色の白さは相変わらずだけど、顔色はいい。あの日見たような瞳の輝きは、あれっきり見たことがなかった。

「お前とオレは同じようなもの食べてるはずなのに、不思議なもんだよなあ」
「何がだよ」
「血の味がさ、ホントにお前のはうまいんだ。かあさんと川藤のは、なんていうか、本当に血だったんだけどお前のは血じゃないみたいにうまいんだよなあ」

 うんうんと頷きながら、不思議そうに「東京の人間はまずいのかな」と首をかしげた先生は、少し口を付けた湯呑みを置きながら散らばっていた半紙を拾い集めて片付け始める。お茶を飲み終わってオレを見送ったら、もう眠るつもりなんだろう。

「母さんが父さんの血がうまいって言うの分からなかったんだけど、やっと分かった気がするよ。誰だろうと血は血で、うまい訳なんかないって思ったけど、お前の血はうまいからさ。吸血の嫌悪感も、ちょっとマシになった気がする」
「……先生。先生のお母さんって、親父さん以外からの血、飲んだことないのか? 先生のとか」
「ないことはないと思うぞ。オレが上げたことはほとんどないけど」
「先生のお母さん、先生の血飲んでもうまいのか?」
「え? いや、うーん……どうだろう。やっぱり父さんのが一番だー、とか言ってたような気がするけど、それがどうかしたか?」
「……うん、まあ」

 こんなに都合よく転んでいいものか、少し悩んで携帯に手を伸ばす。電話しようか少し迷って、メールにした。短い文面を送って、電源を落とす。ほどよく冷めてきた湯呑みの中を飲み干して、布団から遠くに置いた。
 同じく飲み終わった先生が湯呑みを流しに置くからと手を差し出してくる。布団に座ったまま、その手を引いた。

「うわっ!? バカ、何するんだよ!」
「あのな、先生。オレ、先生が好きだ」

 先生の手から湯呑みを奪って、手の届かないところへ。先生は、オレの上に倒れこんだままポカンとオレの顔を見ている。もしかしたら今日はオレが、あの日の先生みたいに目を輝かせているのかもしれない。

「それでな、先生。先生、オレのこと好きだろ」
「はあ!? な、なんだその自信!?」
「だって先生、オレの血、うまいんだろ。先生のお母さんからもらっても、川藤さんからもらっても、ただの血だったはずなのに。それなのに、オレの血はうまいんだろ?」
「それは、……それとこれは関係ないだろ!」
「先生のお母さん、親父さんのこと大好きだったよな。で、その親父さんの血が一番うまいんだろ?」
「……いや、でも、そんな……」
「先生」

 声を震わせて逃げ出そうとする先生の腕を掴んで、震えそうな手にぎゅっと力を込める。先生が初めてオレの血を飲んだあの日とは逆だなと思いながら、オレは先生の首にもう一方の手を伸ばす。静かに抱き寄せた先生は、驚きに目を見張ったまままっすぐオレを見つめていた。

「先生、顔真っ赤だぞ」

 あの日掠めるだけだった唇に、今度はオレが舌を這わせる。ようやく重なった唇はどこか甘い気がして、先生がオレの血を飲むときもこんな感じなんだろうかと思いながら目を閉じた。





(2014.10.17.)