どうぞ召し上がれ



「先生。なぁ、いいだろ」

 背後から回された腕は腹に絡みついている。静かに身を寄せられて、背中が熱い。

「先生? 聞いてるか?」
「か、顔が近いんだよ!」
「……先生」

 机に向かい、筆を持った手が震える。硯へ戻すことも出来ず、半紙に黒い染みが広がっていく。

「何でオレがここ来たか、分かってるだろ」

 まだ照れが入り混じる声音がうなじから耳を掠める。じわじわと全身が熱くなって、心臓の音も大きくなっていく。触れ合った背中は、多分もう汗ばんでいる。
 喉がからからに乾いて、頭はぼうっとして、言葉が見つからない。何か言わないと、と気ばかり焦る。

「ヒロ、……待て。待ってくれ」
「待てん」

 ぎゅっと抱きしめられた体が、切なげな言葉にびくりと跳ねる。
 見たい。今、ヒロがどんな顔をしているのか。どんな風に触れてくるのか。
 ゴクンと喉が鳴る。筆を持たない左手で、絡みつく腕に触れる。むきだしの腕は自分よりずっと健康的で逞しい。力づくで来られたら一たまりもないなと思いながら、即座にそれはないと否定した。
 それだけは絶対にない。島の子どもたちより一歩引いた外側から見ていてくれた、普通で真面目で、優しいヒロが、強引に何かをするなんて考えられない。

「考えごとか、先生? なら先生はそんままでよかよ」
「わっ、待て待て! 待てって!」
「待てん言うたろ」

 抱えられた体がぐっと後ろに引きずられて、慌てて握りっぱなしだった筆を離す。半紙の上を少し転がっていくのを目で追っている内に、机から引き離されて体を反転させられ、抱きしめられる。背中を抱く腕が、ぽんぽんと宥めるように叩く。あやされるような扱いに抗議の声を上げるより先に、明るい金髪が頬をなぞった。
 体をひねった窮屈な姿勢は正直苦しい。それでも精いっぱい優しくしようと心掛けているのは十分分かるから、突っぱねることが出来ない。嫌でないから、心底困る。少し身じろいで抱き込まれたままだった腕を逃がすと、恐る恐るシャツの裾を握った。

「先生、もっと、ちゃんとしてくれ」
「ちゃんと、って……」
「もっと近くに来て」

 身体はぴったりくっついて、頬も身体も熱くて仕方がない。それでもヒロはもっとと言う。握っていたシャツを離して、ゆっくりと背中へ手を伸ばす。縋り付くような姿勢は不安定で、それを自分への言い訳にして身を預けた。
 トクトクと鼓動が高まって息苦しい。肩口に額を押し付けて、短く息を吐く。
 息がかかってくすぐったいのか、ヒロが小さく肩を揺らした。体を離そうかと浮かした腰を、強い力で抱き寄せられる。最初からそのつもりだったのか、ごろんと寝転がったヒロの上に倒れこんだオレは、慌てて腕をついて上体を起こした。

「わ、悪いっ」
「……いいな」
「えっ?」

 すぐ目の前にヒロの顔がある。にっこり目を細めて笑う、人好きのする笑みと、瞳に艶を乗せてヒロが笑っている。色づいた頬に、舐めて少し濡れた唇。悪い顔をしている、と思った。
 甘いものに味を占めた顔。
 見せつけるようにゆっくり伸びてきた手が手首から二の腕へ、撫でるように上っていく。鎖骨を爪先で掠めて、中指で乾いた唇をなぞった。

「見上げるのもいいな」
「は、はぁっ!?」
「いっつも目線変わらんだろ。オレはいつも先生の間抜け面見たり、遠くにある背中ばっか見てるけど」

 普通だ、と思う。ヒロは普通にいいやつで、普通にそこそこ見栄えがいいし、普通に幸せそうな顔をする。今、こうして蕩けるような微笑みは、きっと、幸せな時間に浸ればこうなるんだという見本のようだ。
 地に足の着いた幸せが、ゆるりと頬を撫でる。普段はこんなこと絶対にしないくせに、こんなこと絶対に言わないくせに、幸せそうにヒロが笑う。

「オレのこと好いちょるってカオしとるよ、先生」
「……バーカ」

 顔から火が出そうだ。顔をしかめると、なおさらおかしそうに笑って、ヒロは何かを囁く。小さくて聞き取れない。腕が首の後ろへ回って、引き寄せられながら薄らと口を開く。
 言われっぱなしじゃ沽券に係わる。欲しがっているのはお互い様だ。

「ヒロ、……ヒロ」
「――先生」

 短く息を吸って、瞼を閉じる。まだ慣れずにこわばる身体を奮い立たせて、ゆっくりと――――



「うわぁあああああああっ!?」

 飛び起きたオレは、吹っ飛ばしたタオルケットを震える手で引き寄せると膝を抱えて顔を埋めた。
 信じられない。尻の青い子どもじゃあるまいに、まさかあんな欲望に塗れたひわいな夢を見るとは。仕事の締切を抱えていたとはいえ、そこまでストレスが溜まっていたのか。頭を抱えて唸っていると、背後でごそりと何かが動いた。

「先生、大丈夫か?」
「ヒ、ヒロ!?」
「悪い夢でも見たのか? 何か飲み物持ってきてやろうか」

 少し首を傾げながら心配そうに覗き込んでいるのは、さっきまでとんでもないことをしていた相手。穏やかそうな垂れ目が真っ直ぐオレを映して、振り返って固まったままのオレの額にぺたりと手のひらを押し付けた。
 夢の中でのことが蘇ってギクリと震えたオレに気付かず、ヒロは「熱はなさそうだし、顔色も悪くはないか」と呟いて立ち上がる。そのまま出ていこうとふすまへ向かって、振り返る。布団に座り込んだまま呆然と見上げていたオレを見たヒロが、いつも通りの気安い笑顔を見せた。

「疲れたんだろ。仕事も終わったばっかりなんだろ? 冷たいお茶でも飲めば落ち着くよ」
「あ、ああ……」

 ふすまを開いたヒロの足音が、ぺたぺたと遠ざかっていく。見送りながら、寝起きのぼんやりした頭で落ち着け、落ち着けと自分へ言い聞かせた。深呼吸をして、辺りを見回す。
 仕事部屋だ。机の上は片付いていて、筆さんが転がっていたりはしない。あれは夢だ。夢だ。ホッとしたような、違和感を覚えるような、複雑な気持ちでため息をつく。窓の外は真っ暗で、一体いつ寝たのかも思い出せない。ヒロがいるということは、おそらく夕飯の時間だったのだろう。あのまま夢を見ていたら、どうなっていたか分からない。まだバクバクとうるさい鼓動を鎮めようと、深呼吸を繰り返した。
 ぺったぺったと戻ってきた足音は、ふすまからするりと部屋へ入り込んで止まった。オレのそばで膝を折ったヒロは、冷たいグラスを手渡してからあぐらをかく。「本当に大丈夫か?」と心から心配そうに言われて、申し訳なさから目をそらしてしまった。
 冷たい麦茶で喉を潤し、頭を冷やす。ヒロの言う通り仕事が立て込んでいて疲れていたから、だからあんな夢を見てしまったのだろう。大体、寝起きに絶叫したオレに文句の一つも言わずにかいがいしく面倒を見てくれているヒロが、あんな無体を働くわけがない。ヒロならもっと、

「……って、だから、違う!」
「うおっ!? な、何がだよ先生?」
「あ、いや、何でもない! ホント何でもないんだ、うん」

 口の端をひきつらせて笑うと、ヒロは苦い顔でため息をついた。ため息をつきたいのはオレも同じくだ。本当にどうかしている。まだ寝ぼけているんだろうか。
 少し乱れた布団を直しながら、ヒロが言う。

「それ飲んだらもう少し寝とけよ、先生。朝飯持ってくるとき起こしてやるから」
「ああ。悪いな、ヒロ」
「――先生」
「ん?」

 グラスから視線を上げると同時に、グラスを持つ手にヒロの手が重なる。驚いてそちらに気を取られた隙に、ふっと影が近づく。あっと声を上げる間もなく、唇が押し当てられた。目を閉じていたヒロがうっすらと目を開けて、驚きに目を丸くしているオレに気付いて、目を細める。二度目のキスはもう少し長く、深かった。

「疲れてたのに、無理させてごめんな」
「……え」

 鎮めたばかりの鼓動がまたバクバクとうるさい。グラスは取り上げられ、優しく布団へ寝かしつけられる。
 なんでこんな優しいんだ。今さらそんなことに気付いた。ヒロはしっかり者で親切だけど、ここまでストレートに優しかったか? 大体、仕事は夜遅くまで掛かっていたはずだ。ヒロがどうして終わったことを知っているんだ。
 あの夢のように、夜中にやってきたのでなければ知りようがないはずなのに。
 二の句が継げないでいるオレに、もう一度軽く触れるだけのキスをして、ヒロは幸せそうに微笑む。

「寝付くまでここいてもいいか?」
「あ、ああ……」
「……いいな」

 いつの間にか、蕩けるような熱に浮かされた瞳がオレを見おろしていた。夢の中の光景と被るが、今度はヒロが上にいる。
 どうやらあれが夢ではなかったらしいことは分かった。何しろ、全く逃げる気がしない。

「先生がここにいるの、いいな」
「――オレのこと、好きってカオしてるぞ」
「……先生こそ」

 何が何だか分からないと戸惑う理性を頭の隅に押しのけて、覆い被さってくる熱い身体を受け止める。まだ夜は深いから、朝まで時間はある。
 途切れ途切れの吐息の合間に躊躇いを見つけて、こちらから噛みつくように口づける。先生、と呼ぶ声が心配そうであることに笑いと安堵を覚えながら、ゆっくりと瞼を下ろした。
 今度の夢は、寝覚めがよさそうだ。





(2014.09.17.)