どうぞお静かに



 見え透いた罠に掛かるのはバカだ。
 見え透いた罠を仕掛けるのも、バカだ。


「先生、昼飯持ってきたぞ」
「ヒロか。すぐ行くから、そこ置いといてくれ」
「おう」

 返答がない訳じゃない。「手が離せない」でもない。つまり本当に、今すぐには手が離せないだけだ。ふうとため息をついて縁側に風呂敷を置き、浩志はサンダルを脱いだ。
 返事がなければ無事の確認。置いておけとだけ言われたら仕事の邪魔をしないよう、さっさと退散。食事を運ぶだけだったはずの役目は、今のところここまでを含んでいる。
 居間の机にお盆ごと包んだ風呂敷を置いて、まっすぐ台所まで直行する。流しで手を洗い、洗いかごのグラスを拝借してうがい、それから水を一杯。一息ついたところで、家主である清舟の湯呑を用意して、冷蔵庫から麦茶を取り出す。グラスに箸を二膳、少し迷って麦茶をそそぎ、ボトルは冷蔵庫へ戻した。グラスと湯呑をもって居間へ戻る。
 そこでようやく、隣の部屋から清舟が出てきた。ふすまを開いただけなのに、ふわりと墨の匂いが鼻孔をくすぐる。

「今日は何だ?」
「今日は色々」
「色々ってなんだ、色々って」

 言いながら風呂敷包みを開けた清舟が、ラップをかけた大皿に視線を落としてぱちぱちと瞬きを繰り返す。二秒ほど固まってウンと頷くと、いつもの気の抜けるような気楽な顔で浩志へ言う。

「色々だな」
「試作だからな。あんまり期待してないけど、一応感想聞かせてくれよ」
「一応かよ!」

 いつもの軽口をいつも通り真に受けて清舟がどなる。いつも通り聞き流しながら、ラップを剥がして大皿に盛りつけた一つ一つの説明をしていく。どうせ清舟は後で「これ何だっけ」と言うに決まっているが、説明しないとそれはそれで文句を言う。容易く想像がついて、浩志はこっそりと何度目かのため息をついた。
 夏野菜を焼いたり煮たり、量は多くないが種類は多い。弁当にでも詰めたら見栄えもいいのだろうが、そこまでするよりさっさと盛り付けて熱い内に持っていくのを優先した。どのみち、この書道のことばかり考えている芸術家の青年には料理の味や見た目など大して意味をなさない。たとえ浩志がこの道を目指すきっかけになったのがこの人だとしても、それは間違いない。

「オクラのマヨ七味焼き、ナスの煮びたし、薄揚げのたまご詰め。にんじんとたまねぎのマリネに、鶏のしょうが焼き」
「品数すごいな……」
「煮びたしとマリネは昨日の夕飯だよ。先生には持っていかなかったけど」
「そうなのか」
「マリネがまだちゃんと漬かってなかったからな。それに昨日は先生、食欲なかったろ」

 昨日は何かいい閃きがあったようで食事どころではない様子だった。それでおにぎりやサンドイッチなど食べやすいものを用意していたから、こういったこまごまとした料理は避けたのだ。清舟から頼まれた訳ではなく、自主的にだが。こういうとき、清舟は寝食を忘れて没頭しているから何を出しても味の感想は見込めない。それどころか、食事を持ってきたことすら気付かれないことが多々ある。何度食事をしそこねたのか、どれだけ寝ていないのかも分からなくなっているような人だから無理もない。
 いつ寝たのかは分からないが、朝食を持ってきたときはまだ寝起きだったから徹夜にはなっていないし、朝来た時より顔色もいい。湯呑を渡しながら尋ねれば、朝食後に風呂を済ませたという。すっきりした表情は生活を真っ当な水準まで戻せたかららしい。相変わらずだなと呆れて出たため息に、安堵を潜ませた。
 持ってきた豆ご飯を受け皿に、清舟はおかずを口へ運ぶ。ぱくぱくと飲み込まれていくおかずを見るに、どうやら今日も口に合ったようだ。相変わらず感想は「うまい!」ばかりで微塵も参考にならない。それでも、一番に食べて欲しいのは清舟だけだ。それは、誰にも告げられない事実だった。

「これがいいな。オクラとたまご詰め」
「やっぱり先生は和風の味付けの方が好きなんだな」
「意識したことはないけど、母さんのレパートリーが大体和風だったからなあ」

 和食。和食。頭の中で、あまり豊かでない脳がフル回転する。メニューを増やさくてはならない。和のテイストを取り入れた洋食か、洋のテイストを取り入れた和食か。
 細かな味の変化には気付きそうにない清舟だが、彼の言葉は常に正直だ。それでも浩志とたった五つしか違わないのに手に職があり金銭的には自活出来ていて、子どもっぽく大人げないところが目立つものの、折々この人は自分と違って大人なのだと思うことがある。

「まあでも、他のもうまいぞ。オレの好きな味ばっかりだ」
「そっか」

 近そうで遠い。言葉は素直に、こんなにもすとんと届くのに。
 好きな味ばかり?
 当然だ。毎度食べているのは清舟で、彼の好みに合わせている。「好きな味ばかり」でなければ意味がない。
 料理の上達という主目的からは大きく逸れてはいない。ただの家庭料理から誰かに食べてもらうための料理へと進化させる指針に選んだのが清舟だっただけだ。普通でない清舟の普通の好みに、普通の腕前である自分がどこまで、何が出来るのか。漠然とその道を選んだ。
 たとえば清舟から格別の高評価を得られたら、普通を脱することは出来るだろうか。そうすれば、彼と同じ舞台まで登れるのか。普通でなくなれば、このふらふらした人に近づけるのか。
 グラスを傾けながらぼんやりしている間に、清舟は食事を進めている。ぱくぱくと食べていく様子は気持ちがいいし、作り手としては残さず美味しく食べてもらえるのはやはり嬉しい。食事を運んですぐ帰らずこうして何となく同席しているとき、自分の食事は済ませてきていても言いえぬ充足感があった。
 厳しい家庭だったと聞いている。箸の持ち方も手本のようにきれいだし、書道家らしく姿勢もいい。好きなおかずばかり食べず、品数を出せば万遍なく箸を進める。食前食後の挨拶も忘れない。それらはすべて、自然と身に沁みついているものだ。わたあめの食べ方すら分かっていなかった彼は、それでもどこかしゃんとして美しい。
 イケメンはずるいもんだ、と安易な結論へ結びつけた浩志の目前で、そのイケメンが「ごちそうさま」と手を合わせて箸を置いた。それと同時にふわああ、と盛大な大あくび。腹を軽くさすりながら、うーんと唸って瞬きを繰り返す。

「あー、眠くなってきた」
「満腹ですぐ眠いって、子どもかよ」
「腹くちて満ち満ちる。一眠りしたらインスピレーションも湧くってもんだろ」

 そう言って何度かあくびを繰り返すのを見ていると、むずがゆい感覚に続いてあくびが出た。つられた浩志を見届けて、清舟が静かな眼差しを奥の部屋へと滑らせる。
 清舟がその口を開くより先に、浩志は小さく唇を噛んだ。

「休むか」
「――先生」

 独り言のように言う。尋ねてはいない。何度目かのその言葉に応えるとき、浩志はいつも声が震えないよう振舞うのが精いっぱいで、清舟の表情は見られなかった。

「オレも少し休んでっていい?」



 半田清舟には墨の匂いが染みついている。家も、彼自身も。
 手分けして散らばった半紙を適当に拾い集めて部屋の隅へ寄せ、机の脚を折り畳んで壁へ立て掛ける。浩志が居間と繋がるふすまを閉めると、清舟は出来上がったスペースにごろんと寝転がっていた。押し入れから薄手のタオルケットを取り出すと、腹の辺りに掛けてやる。

「枕は?」
「いい」

 五体を投げ出すように仰向けに寝転がる清舟を、立ったまま見下ろす。天井を見上げる目は既に眠気に誘われているようでうつろに揺れていた。脱力した四肢はあまり日に焼けず頼りなさげに畳の上へ横たわっている。
 清舟の隣へ腰をおろし、同じようにごろりと転がって天井を見上げる。それほど広くない部屋の中は、ふすまを閉めているせいで翳りがあり、静かだった。肩が触れるほど近いのは、部屋が狭いせいだ。大の男が並んで寝転がれば無理もない。書道道具をもっときちんと片づければ、布団を二つ並べて敷けば、もう少し違うのだろうけれど。
 横目に見ても、清舟はぼうっと天井を見上げたまま浩志の方へ気を向ける素振りもない。

「先生」
「……眠いなあ、ヒロ」

 清舟の口ぶりは穏やかで、まるで眠りの淵にいるようだ。しかしそうではないことを、浩志は知っている。もう片手では足りないほどこうして息をひそめて寄り添って、そのたびに清舟は繰り返す。
 眠いなぁ。ヒロ。
 いいや、眠ってなんかやらない。浩志は胸の内で反芻する。
 清舟の思い通りに「そうだな、ちょっと寝ようか」と返すのは、もう無理だ。意識の底深く、眠りの泉に沈められるようなものならば、大人しく横に寝転がったりなどするものか。それならもう、とっくに諦めがついているはずだ。
 清舟の言葉にはいつも何も返さない。黙って、ただ静かに時を過ごしている。この静けさを壊せば、清舟はすぐに浩志を追い返すだろう。清舟には突き飛ばす力はないが、突き放す力はある。視線で、短い言葉で、二人の間の小さな隙間にずずっと太い線を引いて、もう踏み込ませてはくれない。小心者で保守的で、大人らしい物分かりの良さという名の墨で、この名もなき繊細な関係は跡形もなく塗りつぶされる。
 それでもこの人は詰めが甘いと、常々思っていた。

「せんせ、」

 畳の上にだらりと伸びている腕に、指先でそっと触れる。最近はボールやバットより包丁を握るようになった手で白く筋張った腕を辿り、そっと手に触れる。両手で恐る恐る触れた手は、決して握り返してはくれない。それでいて振り払うこともなく、清舟は決まって顔をそむける。天井から、浩志とは反対側の壁へ向けられた顔で清舟が何を考えているのかは分からない。いくつか都合のいい妄想がよぎって、いくつか都合の悪い悪夢がよぎる。
 これが、自分に許されたギリギリの距離なのだろう。そう思いながら、そうっと清舟の手に触れる。指の一本一本を、関節を、ゆっくり辿って確かめる。筆を握り、半紙を押さえ、浩志には到底手の届かない大舞台で一番を取ろうとしている手は、恐ろしく、羨ましく、愛おしい。

「先生」

 憧れや敬愛だけならどんなに良かったか。清舟に一切その気がなければどれだけ気楽だったか。諦めもついただろうし、気の迷いだと振り切れた。芯からにじみ出る想いの根深さと、清舟の迷いに気付かずにいられたら、こんな息苦しさにまどろむこともなかった。
 触れた手を、そうっと引き寄せる。色白の指の乾いた皮膚を、震える唇へ押し当てた。
 細い骨の感触。染みついた墨の香り。かさつく唇でなぞりながら、浩志は堪らず瞼をきつく閉じた。

「せんせ、……ごめんな」

 不自然なほど微動だにしない清舟は、目も、唇も、何も応えない。だから吐息と共に吐き出した言葉が震えていたことも気にせず済んだ。清舟が見ないふり、知らないふりをしてくれている間はまだ、何もかもなかったことに出来る。そうして黙って逃げ道を用意してくれる大人に甘えるしか身の内に渦巻く熱を吐き出す方法が分からない浩志は、口惜しさと惨めさに苛まれながら清舟の指へ唇を寄せる。
 肝心の言葉は言えない。伝えられない。形にすれば、これまでの日常はすべて塗りつぶされて変わってしまう。少しずつ歩み寄ってきた日々も、夏の海辺の思い出も、何もかも穢してしまう。

「ごめん、先生」

 宛てのない謝罪を重ねながら、しかしそれでも惨めさや罪悪感を包み込むほど、赦されているという幸福に酔いしれてしまいそうなのは弱さなのだろうか。自分以上に深く考えて、ただ静かに耐える道を用意した清舟の想いに期待を抱くのも、「ありがとう」と言いたくなるのも。
 この手に噛みついて、並んだ身体を抱き寄せて、指ではなく唇を重ねて、何もかもだめにしてしまってもいいと覚悟が決まらないものか。あるいは清舟が突き放すなり、受け入れるなりしてくれないだろうか。

 ぬるま湯の静けさの中、静かに静かに、二人は息をひそめて寄り添う。
 身じろぐことも出来ない密かな甘い空気に息苦しさを覚えながら、奇跡を願うように冷たい指へ乾いた唇を押し付けていた。





(2014.09.16.)