どうぞお構いなく



「じゃあ先生、ウチら帰るけん。またね」
「さよなら先生」
「おー、気を付けてな」

 すっかり陽も落ちた夕刻、夕飯の時間だと帰って行ったなるに続き、美和とタマがバタバタと出ていく。相変わらず縁側から上がり込んでいた二人は玄関を通らず出ていくので、部屋にいた清舟は座布団に腰を下ろしたままひらひらと手を振って見送った。裏から出ていく間際、タマがちらちらと振り返っていたが、結局何も言わず帰っていく。彼女が時折不思議な言動を見せるのはままあることで、よく分からんなと思いながら食卓の湯呑に手を伸ばした。

「あいつら帰ったのか?」
「たった今な」
「くそ、片付け手伝う気が微塵もねーな……」
「けしからん奴らだ」
「先生もだぞ」

 じとりと睨む視線も慣れたもの。湯呑に入れた冷たい麦茶を口にしながら、清舟は笑って押し流した。まったく、と文句を言いながらも浩志は台所へと戻っていく。今日は両親が家を空けているとかで、一緒に夕飯を食べることになっている。勿論、いつも通り作るのは浩志だ。
 食材と自分の食器を手にやってきた彼は、なるや美和たちが散々に荒らした悲惨な台所を見るなりウワッと悲鳴を上げていた。今日の彼女らの遊びはいつかの反省を生かした簡単なおやつ作りだったが、当然というべきか、あちこちに材料が飛び散ったり分量をろくすっぽ計らなかったりで、今回も成功とは言い難い出来上がりだった。それでも前回の大失敗ケーキに比べれば、溶けきらなかったゼラチンの入り混じる甘いナニカは食べられないほどではなかった。あともう何回か挑戦すれば成功するのではないだろうか。そもそも、ゼラチンをふやかしてジュースと混ぜるだけだ。真面目に、きちんと計量すれば清舟でもこれくらいは真っ当に作れる。なるがとんでもないものを混入したり美和が変なアレンジをしたりしなければ、彼女たちでも作れるはずだ。
 浩志の言う片付けは彼女たちのままごとの後始末だ。あれを片付けないと夕飯が作れないと、珍しくいつまでも憤慨していた。腹が減っているのだろう。空腹は人を淀ませる。

「先生、今日チンジャオロースだから」
「おおっ、中華!」
「ちゃっちゃと用意するから、そっち片付けといてくれよ」
「分かったっ」

 数か月前まで時間になれば用意してくれる母親の手料理ばかりで育った清舟には「ちゃっちゃと」料理が用意できる仕組みは全く分からない。分からないが、浩志が言うなら本当にちゃっちゃと出てくるのは間違いない。
 なるたちが散らかしていったものは箱にまとめて放り込み、自分が広げた半紙を拾い集めて隣の部屋へ運ぶ。硯と筆を持って台所へ行くと邪魔だと追い出され、仕方なく風呂場で筆を洗った。台所の方が近いからいつも流しで洗っていたのだが、浩志に「食事の用意してんだぞ」と盛大に顔をしかめられては致し方ない。彼が気にしたのは衛生面なのだろうが、どのみち流しを占領しては調理の邪魔にはなるだろう。ともあれ大事な「筆さん」を丁寧に洗い流すと、軽く水を切って部屋に戻した。

「よーし」
「何がよーしだ。机拭いてくれよ、もう出来たから」
「早いな」
「ちゃっちゃと作るっつったろ。よそっとくから、ほら、台拭き」

 気分よく居間に戻れば、既に調理を終えたらしい浩志が机に台拭きを置いて踵を返す。チンジャオロースってそんなにすぐ出来るもんなのか。料理にはさっぱり縁のない清舟にはそういうものなのか、あるいは浩志がよほど急いで用意したのかは分からない。分からないが、台所からは食欲をそそるいい匂いがしていた。炊飯器から米を盛っているようで、その匂いもまた空腹を煽る。
 硬く絞られた台拭きでしっかりと机を拭き、片付けの際に部屋の隅へ放っていた座布団を置く。タイミングを見計らっていたのか、ちょうど皿を持って浩志が戻ってきたので清舟は一息ついて腰を下ろした。清舟が箸や茶を用意しようとする気もないのはもう分かっていたのだろう。少し呆れた顔はしたが、浩志は清舟の分の食事を先に机へ運ぶと、台所と往復してあれやこれやと並べていった。浩志が置いていった料理を定位置に並べるだけ並べて、清舟は「おおお」と目を輝かせる。

「やっぱり出来立てはいいな」
「そりゃどーも。ほいよ」

 用意も準備も碌に手伝っていないが、清舟が先に食べ始めることはない。食卓に全員がそろって手を合わせるというのは清舟の実家でも行われていることだった。重ねて言うなら、すべての準備を母がするのも実家での日常である。当然のように浩志の着席を待って、清舟は手を合わせて食べ始めた。

「うまい! 箸が進むな、これは」
「ちゃんと食っとかないとアンタまた倒れるだろ。暑さがマシになってきたからって気ィ抜いたら風邪引くからな」
「そういや最近、朝方は結構涼しくなってきたよな」
「そうそう。だから徹夜で倒れたりしたら、一発で寝込むことになるぞ」

 先生は丈夫じゃないんだから、と付け足した浩志は、口いっぱいに夕飯を詰め込みつつムッとした清舟へ肩をすくめて見せた。書道馬鹿の清舟が仕事に熱中するあまり徹夜を重ねてフラフラしているのは、島に来てから今までもう何度もあることだ。暑さが厳しい頃はあまり無理をしないように気を付けていたようだったが、少し涼しくなってきたこの頃はまた寝食を忘れがちになっている。
 あんまり食べるとまた太るんだよなと腹を見下ろしつつ悩ましげな清舟だったが、ふと思い至って向かいの浩志を見つめてウーンと首を傾げた。

「どうした、先生。味、なんかおかしかったか?」
「いや、そうじゃなくて……ヒロ、お前ちょっと何かしゃべってみろ」
「は?」
「いいから」
「いや、さっきまでもしゃべってたろ」
「……うーん」

 箸を持った手をあごに添えて、清舟は逆側にうーんと頭を傾ける。少し長く伸びてきた髪が片手の茶碗に入るのではと、浩志はそちらが気になって仕方がない。とにかく茶碗を置けと促すと、清舟は慌てて背筋を正した。
 食事を続けながら清舟はまだしばらくウンウンと唸って、しばらくして「なあ」と問いかけた。

「もしかして、かなり気を遣われてるのか」
「は?」
「言葉だよ。お前、郷長とか美和たちと話してるときはたまに出るだろ、方言」
「なんだ、さっきから唸ってたのそれかよ」
「お年寄りに比べたら郷長とか美和のは分かりやすいけど、お前、オレと話すときほとんど方言混じらないだろ。使い分けてくれてたのかって」

 方言らしい方言のない都内からやってきた清舟には、島に来て半年近く経った今になっても方言はよく分からない。方言のきつい年長者に比べれば歳若い者たちの方言は弱くなるが、それにしても浩志はイントネーションや語尾がたまに訛るかどうかという程度で、浩志の言うことが分からないことはほとんど覚えがない。
 それでも彼が訛っていないのかといえばそうでもなく、彼の両親や美和たち地元民同士で話していると訛りがきつくなっていることがあった。ふとした瞬間に「あれ、今あいつらなんて言ったんだ」と思うこともあったが、話の流れなどで何となく意味は分かる。訛るときとそうでないときがあるのかと不思議に思っていたが、先ほどから話し続けていても、やはり浩志はほとんど訛っていなかった。
 箸を置いてもくもくと咀嚼する清舟に、浩志は少し困った様子で頭をかく。

「元々オレは訛りがきつい方じゃないし、それに使い分けてるんじゃなくて勝手にそうなるんだよ」
「勝手に? 無意識で訛ったり、そうじゃなかったりするのか」
「訛っちょるやつと喋ってっとつられて自分も訛るし、先生みたいに訛っちょらん人と話すと自然と抜けっとよ。……今のは、ちょっと意識して訛り使った」
「へーえ、そんなもんなのか」
「そんなもんだ。タマもあんまり訛らないだろ。あいつはある程度意識して使わないようにしてるみたいだけど」

 年頃だから気になるのかもな、と言って食事を続ける浩志に「ふうん」と気のない返事をするが、まだ何となく腑に落ちない。浩志の言うことは真実なのだろうが、方言を使うことのない清舟には無意識で言葉が変わるという感覚はよく分からなかった。
 そうして不思議そうにしている清舟を前に少し考え込んだ浩志は、ふと思い至ってにやにやと頬を緩めた。

「その内オレたちも先生に方言使いだすから心配すんなって」
「え、待て待て。あんまりきついと分からんぞ」
「大丈夫、先生と同じくらいしか使わんけん。ほっちょけちば、なら分かるんだろ?」

 ぎょっとして目を丸くした清舟の前で、浩志は目を細めて笑う。

「お、お前! あの時間は学校行ってるはずだろ!?」
「帰ってくるとき、村のモンみーんな教えてくれよった」
「田舎情報網!!」
「……なあ。覚えようとするもんじゃなかよ、先生」

 不意に声のトーンを抑えて、浩志が言う。笑んだ目はやんわりとした眼差しに代わり、視線は食卓へと落ちた。

「オレたちもそうだった。先生も同じだ。自然と体で覚えて、馴染んでいくんだよ」
「……自然と」
「オレたちは先生に気ぃ遣って遠慮したりしない。だから先生も、分からなかったら遠慮せず聞けばいいんだよ。そうしてる内にだんだん分かってくる。大体、遠慮するような仲じゃなかろ」

 大丈夫だよ、と続けて浩志は静かに食事を再開する。対する清舟の手はぴったり止まってしまった。
 得体のしれない安堵があった。
 分からない。分からないが、ホッとしている。同時に、無性に気恥ずかしさが募った。
 何とも言えず黙りこくっていると、浩志が「さっさと食えよ、先生」と咎めてくる。叱るような物言いにムッとして視線を上げれば、少し恥ずかしそうにしかめられた顔があった。忠言は照れ隠しらしい。

「なんでお前が照れるんだ」
「せ、先生がそんな顔するからだろ!」
「えっ」
「自分の顔は見えないんだからいいよな。まったく」

 恥ずかしさを吐き出すようにため息をついて、浩志は食器を手に台所へ逃げて行った。この家で食事を用意してくれるときは律儀に洗い物を片付けて帰るから、的確な逃亡先だ。居間に残された清舟は、どことなく居たたまれない気持ちでおかずに箸を伸ばす。
 村に馴染んできている。清舟が島に来たことを喜んでくれている人がいる。分かっていたはずだが、改めて考えると気恥ずかしさが勝ってしまう。どうしても落ち着かない心地になるが、このむずがゆさは嬉しさから生じるものだ。

「先生」

 ざあざあと水を流す音に混じって、振り返らない背中が呼びかける。

「オレも先生に遠慮ばせんけん」
「ああ」
「大丈夫だぞ、先生」
「……うん。分かった」

 箸を持ったまま、ぼんやりと頬杖をついた。行儀は悪いが、浩志は背を向けたまま洗い物を続けている。大して変わらぬ背丈の悩み多き少年の背中に、清舟は苦い笑みを浮かべた。
 今、悪くないと思っている自分がいるのは間違いない。この暮らしも、この時間も。子どもたちが押しかけてくる日中の騒がしさは煩わしく思うことも多々あるが、なくなってしまえとはもう思えない。そうして少しずつ変わっていくことを、馴染んでいくと呼ぶのだろう。
 うん、と一人で納得して、最後の一口を放り込む。もぐもぐと口を動かしながら食器を手に席を立って、どうやらまた恥ずかしさに見舞われているらしい浩志の隣に立った。そのまま横顔を見ていると、半ば睨むように「なんだよ」と口を尖らせてくる。

「オレも遠慮しないことにする」
「先生は元々遠慮なんかしてなかっただろ」
「ほっとけ。……うまかった」
「……あっそ」
「ありがとうな、ヒロ」

 泡のついた食器を避けて、流しに皿を下ろす。食べろ食べろと言いながら、無理のない量をよそっているのは知っている。それでいて清舟の好きなメニューのときは気持ち大目に盛ってくれているのも。
 これ以上は無理だ。顔が熱くなる前に踵を返し、仕事部屋に引っ込む。「先生!」と呼ぶ声には聞こえないふりをする。これでいい。お互い遠慮はなしなのだから、本当に言いたいことがあるなら浩志はこの部屋にだって追いかけてくる。そうでなくても、帰るときには声をかけていく。そう思えるだけの関係は、きちんと築いてきたはずだ。

「確信を持ってることが恥ずかしい、なんて思う日がくるとはなぁ」

 逃げ込んだはいいが、こんな浮ついた気持ちでは仕事には取り組めない。それでも、何か新しいものが書けそうな予感はあった。じわりじわりと込み上げる頬の熱さを筆に乗せれば、まだ見たことのないものが見えてきそうな気がする。
 遠く聞こえる台所の水音に気を取られながら机に向かい、そっと筆を手に取った。





(2014.09.08.)