牢獄





 故郷ではよく紅茶を飲んでいた。茶葉は大抵安いブレンドもので、しかしこれといってこだわりはなかったからそれで特に不満はなかった。パンにもスコーンにも紅茶はよく合っていたし、香りを嗅ぐとふっと気持ちが安らいだ。
 コーヒーを飲むようになったのは、人を殺すようになってからだ。





 すぐに目を開けるかどうか少し迷って、けれど真上から覗き込んでいる誰かが微動だにしないので、まるで今気がついた風を装ってゆっくりとまぶたを持ち上げた。二度、三度まばたきをすると視界がクリアになり、こちらを見つめている子どもと目が合う。
 ――子ども?
 ゆったりとまばたきをもう一つ。赤みの強い紅茶色の瞳が、じっと見下ろしている。
 ええと、と何か言おうとして唇を動かしたが、口の中までからからに渇いていて、結果として少し動いただけに終わった。子どもからは喘いだように見えただろうか。
 子どもはこぼれそうなほど大きな目をまばたいて、するりと視界から消えていった。正しくは寝ている上から身を引いただけなのだろう。その証拠に、ベッドのスプリングらしきものがギシと軋んだ。
 気配が遠ざかっていく。思わず呼び止めようとするが、やはり声が出ない。少しだけ浮いた手もすぐにシーツの上へと沈んでしまった。重りがつけられたように身体が重くて仕方ない。
 ため息をつくのと、子どもが振り返るのはほとんど同時だった。

「あんたの連れは無事だ。いま、連れてくる」

 起伏に乏しい声。これといって感情が窺えない表情。子どもらしい小柄な体躯に似合わない、少し釣り目がちでまっすぐ撃ち抜くような視線だけがゆらゆらと耀いている。
 何の反応も出来ないまま見ていると、子どもは背を向けて開け放たれた扉の向こうへと姿を消した。扉の先は壁になっているから、つまり廊下なのだろう。入り口を開けてすぐ一間だけあった、住みなれたねぐらではないのだと今さらのようにぼんやりと認識する。
 身体同様、頭の中も錆びついたようにぎこちない。無理やりに思考を働かせ、目だけで辺りをうかがう。
 少しくすんだ、けれど汚くはない白い土壁が壁面から天井まで覆っている。天井には小さな花を模した照明器具が取り付けられていて、やや暖かい色味の明かりが部屋の内部を仄かに明るく照らしていた。身体を包む布団も白く、シーツも、どうやら枕も白いようだ。身体と布団の間に挟まれたタオルケットはホッとするような優しいアプリコット色で、どこからかミルク仕立てのスープのような匂いも漂ってきていた。
 地味だが明るい内装、静かで暖かな空気、どこの誰とも知れない男のそばに子どもを一人で置いておく迂闊さ。ごく普通の一般家庭に拾われたのだろうと推測して、浅く息を吐き出した。少なくとも、暗い地下室に放り込まれてリンチを受けた後だったりはしないようだから、素晴らしく運がよかったに違いない。身体は重いが四肢の感覚はきちんとあって、命の次に大事な両手も、五感のいずれもこれといって不都合を感じない。
 辺りの気配は探りながらも、少しだけ身体の力を抜く。
 生きている。それが何より大事なことだ。生きていなければ何も出来ない。志半ばで倒れるのなら、なぜ故郷を遠く離れてこんなところまできたのか。
 ――遠く、……なのか。
 ああ、そうだ、と心の中に確かめる。
 そう、生きていなければいけなかった。どうしてもやり遂げなければならないことがあって、守りたいものがあって、それでここまできて、それで。
 ――それで?
 ゆっくりと思い出していく。自分がこの辺りの生まれではないこと。この、乾いた固い土と砂、争いばかりが吹き荒れている土地へずいぶん遠くから旅をしてきたこと。身体が重い理由。順を追って、絵本を読むようにゆっくりと記憶のページをめくっていく。
 枕もとの方角、おそらくは廊下の向こうから軽い足音と耳慣れた声が聞こえてきたのは、自分の名前が「ロックオン」であると思い返した頃だった。

「ロックオン! ロックオン!」
「ハロ!」
「ロックオン! ロックオン!」

 機械音声で名前を繰り返すハロへシーツの上で安堵の笑みを見せると、ぽんぽんと跳ねてきた勢いそのままに飛び込んできた。受け止めようとした腕は上がらず、げ、と顔を引きつらせると同時に懐かしくも重苦しい衝撃が腹を直撃する。ハロと共に部屋へ戻ってきた子どもは、一連の動作を見て小さく首を傾げていた。





「ロックオン、ヨカッタ! ヨカッタ!」

 ハロは子どもの膝の上でゆらゆらと揺れている。あやすように軽く手を添えている子どもは相変わらず人形のように澄ました顔をしていたが、よく見れば目元がゆるく細められ口元も小さく笑みを浮かべている。とても分かりにくいが、この子どもはハロを気に入っているらしい。
 何とはなしに眺めていると、子どもがちらりとこちらに視線を合わせてきた。たっぷり五秒ほど見つめ合ってから、ようやく口が開かれる。

「水はもういいのか」
「ん、ああ。今のとこな。ありがとう」

 礼を述べれば子どもはこくんと頷いて、そのまま膝の上のハロに視線を落とした。そして会話が途切れる。
 言葉を探しているわけではないようで、子どもはそのままどうする気もないようだった。つまり、どうやら無口であるらしい。
 自分は軽い会話を楽しむたちだが、この沈黙は別段苦痛ではなかった。
 扉とは反対側、左手に大きく作られた窓は限界まで開き切っていて、そこから撫でるように吹いてくる風が気持ちよく、遠く聞こえる木々の揺れる音も眠気を誘うほどに心地いい。民家らしいとしか分かっておらず、怪我はないが自由の利かない状況でどうしてかこんなに安らいでいる。
 しかし、だからといってぼんやりくつろいでもいられなかった。くつろぐにしても、現状の把握ぐらいは済ませておかなければならない。
 泥の海に沈んだような不自由さを感じながら首を動かして、ベッドのすぐ横に椅子を置いて座っている子どもへと顔を向ける。出来る限り警戒されないよう、努めて明るく、少し疲れた声音で尋ねた。

「お前、名前は?」

 思ったよりも低い声が出てしまって、慌てて笑みを深くする。顔を上げた子供はしばしこちらを見つめて、窓から差し込む光に瞳を赤くきらめかせた。深みのある赤い瞳は暗く、色濃く、にぶく輝いてぞっとするほど美しい。

「刹那」
「……『せつな』?」
「ああ」

 なれない発音を繰り返すとまた一つ頷いて、刹那はハロを撫でた。パカパカと耳のような部分を開閉させているハロに目をやると、「ドウシタ?」と聞かれてしまった。それはこっちの台詞だ、と内心で口をとがらせつつ刹那の名を呼ぶ。

「オレの名前は、」
「『ロックオン』だろう」
「やっぱり分かってたか」
「違うのか?」
「いや」

 ロックオンだと改めて名乗る。刹那はこれにも、こくりと頷くだけだった。
 本当に静かな、というよりは反応の薄い子どもだ。少ない受け答えからも聡い子どもだろうと伺えるのに、言葉と表情の少なさから沸き立つ違和感が拭えない。ずいぶんと愛らしい顔立ちをしているのだから、もっと色々と子どもらしい驚きや興味を見せたらいいのに。あるいは、こまっしゃくれたところであるとか。
 胸の内が小さくさざめくような寂寥感を笑顔で覆い隠しながら、まるでそこが定位置だとでも言うように落ち着いているハロにぴっと指を差し向ける。

「今回は結果的にオーケーだがな、ハロ。知らない相手に名前をホイホイ漏らすんじゃねえぞ」
「ゴメンナ、ゴメンナ」
「……ハロがお前を呼んでいなければ」

 めっ、と叱る振りをするのを見た刹那がいささか不機嫌そうに首を振る。

「ハロが黙っていたら、あんたは死んでいた。ハロが名前を呼んでいたから気が付いたんだ」

 褐色の肌に、艶めくクセのある黒髪。幼い顔には大きな紅茶色の瞳。陰ればボルドーワインのようにも見えるだろうか。それら全てがあつらえたように整っていて、妙な色気があった。決して美少年ではないし、少女と見まごう愛らしさとも違う。どこかアンバランスな危うさを内包した、そう、つり橋を渡る胸の動悸のような高揚感。
 普通の安穏とした暮らしを送る子どもとは一線を画する何かをはらんでいる。もっともこれは、ロックオンのカンでしかないのだけれど。
 目の前の男がこっそりとうろたえていることなど知らず、刹那はハロに触れる手をきゅっと強めた。

「ハロの声であんたを見つけて、岸まで運んだ。湖の中で生きていられたのは運が特別よかったのと、身体が沈まないようにハロが支えてくれていたからだそうだ」

「ハロの声であんたを見つけて、岸まで運んだ。湖の中で生きていられたのは運が特別よかったのと、身体が沈まないようにハロが支えてくれていたからだそうだ」

 責めるような鋭い眼光に言葉を飲んで、横になったまま目線を宙に漂わせる。
 どんな理由があったにせよ、素性を知られてはまずい職業についている身としてはコードネームといえどボロボロと漏らされては困るのだ。まして意識のない間に情報を漏らされてはその対応すら出来ない。
 でも、と思案を止めてハロへと視線を戻す。

「そうだったのか。そりゃ、知らなかったとはいえ悪かったな。ありがとよ、相棒」
「キニスルナ! キニスルナ!」

 目をチカチカと光らせて喜ぶハロから視線を上へと辿れば、ハロを見下ろして静かな表情に戻った刹那がいた。今なら会話も続きそうだと踏んで、言葉を重ねる。ハロを庇う話の中で、気になったことがあった。

「なあ刹那。ここには、お前の他に誰がいる?」

 刹那は岸まで運んだと言った。それなら岸からこの部屋まで運んだ人物が他にいる。一回りも二回りも小柄な刹那では、どう考えたってロックオンを担ぐことは出来ない。浮力の働く水中ならまだしも、ここは重力のある地上で、刹那がとんでもない怪力の持ち主という可能性も限りなく低いだろう。
 刹那は顔を上げ、ハロでもロックオンでもないどこかを見て、誰かの名を呼んだ。聞き取れず首を傾げたロックオンに気付いているのかいないのか、視線は下がってまたハロの頭上に落ちる。

「もうじき来る」
「え?」
「食欲はあるか」
「……ある、かな」

 歯切れの悪い答えになったのは急な話題転換のせいだ。言われて腹を意識すると、からっぽの胃が鳴きだしそうに思えてくる。
 考えてみれば、意識をなくす前も丸一日はほとんど何も食べていない状態だった。それでよくもまあ動けたものだ。川に落ちたところで終わっている記憶を辿り、空腹で倒れなかった幸運を噛み締める。
 ――川。空腹。

「刹那、岸まで運んだってのは……」
「失礼する」

 新たにわいた疑問を口にするより先に、何の前触れもなく扉が開いた。扉を開け放して入ってきたのはおそろしく端正な、あるいはよく出来た人形のような、小奇麗な顔立ちだった。パープルの髪はあごのラインに沿って切り揃えられていて、メガネの奥の眼光の鋭さも合わせると口を開かずとも几帳面そうな印象を与える。刹那よりは、いくらか年上の、ロックオンよりは年下と思わしき男だった。
 男が入ると同時に刹那は彼へ振り向き、じっと見つめていた。足音も気配もなくやってきたというのに驚いた様子もない。
 奇妙だ、と何度目かの疑問を抱く。
 刹那も、彼も、ここそのものも。穏やかでありながら、違和感が拭えない。

「目が覚めたか。ロックオン・ストラトス」
「……へぇ、フルネームでご存知かい」
「有名だからな」

 冷たい印象の鋭いまなざしがロックオンを見下ろしている。声の硬質さも加味して、この男は神経質そうだと印象の覚書に書き足す。
 おそらくハロはフルネームを漏らしていない。男の口ぶりから察するに、彼が独自で調べた結果なのだろう。こちらの素性を調べ、薄暗いそこへ辿り着ける者。間違いなく、普通の穏やかな家庭にはありえない存在だ。
 どうするかと目を細めたロックオンの前で、不意に刹那が椅子から立ち上がる。ハロをロックオンの枕元に置くと、ロックオンを見たまま男へ腕を伸ばした。

「ロックオン、ティエリアだ」

 不思議なタイミングだが、顔合わせの紹介をしてくれたらしい。そのままティエリアと呼んだ男へ向き直ると、同じようにロックオンを手で指し示す。

「ティエリア、ロックオンとハロだ」
「ハロ?」
「そう呼ばれていた」

 ティエリアに答えながら、刹那は確認するようにロックオンを振り返る。その通りだと頷いて、刹那とティエリアが佇むのを眺めた。
 ティエリアの肌は白い。白人には見えないが、刹那の褐色の肌とは明らかに違う。髪は染めているのかもしれないが、顔立ちもはっきりと違っている。二人の容姿に似通った点は見受けられない。ひょろりと細いわけではないが、肉体労働には不向きそうな体つきをしている。刹那は小柄だが活発そうなのに対して、こちらはいかにも頭脳労働担当、趣味は読書といった風体だ。
 もちろんすべて主観でしかないのだが、ともかく、二人が血のつながった家族であるような印象は受けない。間違いなく「ごく普通の一般家庭」ではないのだろう。

「アレルヤは?」
「連絡はした。もう来るはずだ」
「そうか」

 淡々とした会話が続く。表情に感情がのらないところだけは、二人の共通点かもしれない。ロックオンを見ていたときほどの冷たさはないが、刹那を見るティエリアの表情は特にこれといって和やかなものは浮かんでいなかった。
 刹那の口にした「アレルヤ」というのがロックオンをここへ運んだ人物だろうか。ティエリアには無理そうだなと思った。出来る出来ないでなく、この男はそれを拒絶しそうだ。
 刹那の目が射抜くナイフなら、ティエリアの目は透明な分厚い壁だ。他者の侵入を許さない。刹那はロックオンを受け入れているような節があったが、ティエリアはあきらかに不快感を示していた。
 身体が思うように動くなら、非力そうな二人だけのうちに逃げ出したほうがいい。だが今は身体を起こすだけで精一杯だろう。
 正体は、おそらくばれている。暴行を受けた様子はないし、手当てはされている。どのタイミングで逃げ出すか、どのように振舞うべきか――

「ロックオン・ストラトス。これだけは言っておく」

 ぐるりぐるりと考え始めたロックオンを、再びティエリアの視線が刺し貫いた。一歩前に踏み出した彼の目がうすく細められる。ティエリアは口の端をあげて微笑んで見せ、けれどその目は冷たくロックオンを踏みつけている。
 ティエリアは、嗤っていた。

「身体が治っても、あなたはここから出られない。たとえ俺たちを皆殺しにしても」

 不運だったな、と心にもない様子で続けたティエリアは、傍らに立つ刹那へちらりと視線を寄こすとフンと鼻を鳴らした。

「死体ならば処理の仕様もあったが、生きているなら仕方がない。恨むならここへ迷い込んだ己を恨め。あるいは、見殺さずに連れ帰った彼を恨むか」

 全く説明になっていないが、ロックオンは身体の力を抜いた。
 いますぐ動ける状態ではない。動けたとして、動いていい状況でもない。
 言っていることがはったりでない証拠はなかったが、試す気にはなれなかった。投げやりなティエリアの言葉を一つ一つ拾い上げてつなぎ合わせれば、いくらか現状も見えてくる。
 彼らを殺しても出られないなら、彼らが妨害するから出られないわけではない。
 迷い込んだということは、己の意識が途切れた川とここは繋がっている。
 生きているものは出られないが、死体なら何がしかの処置を施した上で運び出せる。
 ティエリアは、刹那の決定に逆らえない。
 最後の一つは意外でもあった。ティエリアが己を見つけていたなら見殺しに、つまり溺れ死ぬのを待たれていたところだろうに、刹那が先に見つけ、助け、連れ帰った。連れ帰るために誰かの手を借り、嫌がるティエリアの不満を抑えて、現状があるのだろう。
 普通ではないが、しかし刹那は見たところ13、4歳の子どもだ。それでもティエリアが逆らわないのなら、力でも年功序列でもないものが彼らの間にあるのだろう。権力であるとか、地位であるとか、雇用関係であるとか。
 ティエリアの言ったことをすべて鵜呑みにする訳ではないが、当分は身動きが取れなさそうだと判断すると、ロックオンは深くため息をついた。
 何が一般家庭だ。逃げ出せないなら地下牢と大差ない。

「疲れたのか?」
「いや……」

 ティエリアの後ろで少し首を傾けた刹那の問いかけに、天井を見上げて唸る。命の危険はとりあえずなさそうだが、しかし。

「まいったな、と思って。困ってる」

 正直な気持ちを口にすると、刹那は相変わらずの平坦な声で「そうか」とだけ応えた。







(09.05.20.)