パンドラの箱庭





 水色とねずみ色のまじった空を見上げながら、そういえばねずみを見た覚えがないなと考えた。庭にも奥の森にもいないのか、それとも出くわさないだけなのか、記憶にない。
 ティエリアがくれた色えんぴつや絵の具にはねずみ色がきちんと納まっていて、けれど時折名前が違っていたりした。灰色と書かれているよりはねずみ色のほうが好きで、どうしてねずみ色ではないのかと尋ねたこともあったはずだが明確な返答を覚えていない。これは覚えていないというより覚えられなかったのだろうと思う。いつだってティエリアの説明は的確で、けれど刹那には難解だった。結局かみくだいて話してくれるので理解は出来るのだけれど、それはだいたい「そういうものだ」の一言に終着していた。つまり、よく分からないまま終わっている。
 ソファから立ち上がり、開け放たれた大きな窓から庭に下りる。乾いた土の地面は固くざらついていて、刹那が裸足で下りるので、この辺りだけは懸命に石が取り除かれ平らに均されていた。滅多と雨が降らないせいで目立った緑はないけれど、ひょろひょろと細い草が地面にへばりついている。枯れているようでいて、いつだって薄い緑はここにあった。遠目に見ればねずみ色と土色の上にちらちらと黄緑が振り掛けられているように見える。
 もう一度空を見上げたとき、背後の部屋の扉が開く音がした。屋敷の中にいるのは彼一人しかいなかったので、振り返らずとも誰だか分かっていた。そうでなくたって気配で分かる。彼が、どこにいたって刹那の声を聞き逃さないのと同じことだ。「そういうものだ」とティエリアが言うのだから、そういうものなのだろう。

「何をしている」

 咎めるような声に振り返ると、ティエリアは険しい顔でローテーブルにカップを二つ置いたところだった。長細く白いトレイの中には花や蔦の絡まりあったような模様があって、縁は金色で覆われている。丁寧に磨いて使うわりにティエリアがあまりそれを気に入ってはいないことを知っていた。
 足の裏の土を軽く払って、部屋に戻る。近づくと当然のようにタオルを差し出され、刹那は大人しくそれを受け取った。ソファに座り片足を腿に引き上げ、足の裏をぐいぐいと拭く。薄い青色のタオルに土色が移り、もう片方の足も同じように拭いたところでタオルを取り上げられた。そのまま部屋を出て行こうとしたティエリアは、壁紙の模様を眺めながら、思い出したように口を開いた。

「窓を閉めろ。じきに風が強くなる」

 刹那が立ち上がるのを待たずにティエリアの背中は部屋を出て行った。しばしそれを見送って、開け放たれた窓へと近づく。
 空は、先ほどよりは幾分か暗くなっていた。砂嵐が来るのだろう。この辺りは滅多と雨が降らない。空が鈍く色を深めたときは大気に含まれる砂の量が増したということだ。それがねずみ色であるなら、どこかの戦場で黒くすすけた土が舞い上げられたのだろう。ティエリアに尋ねたことはないが、与えられた本からそう憶測を立てている。
 磨き上げられたガラスの窓を半分閉め、もう半分に手をかけたとき、ローテーブルを振り返った。
 カップは二つだ。ティエリアが戻ってくる気配はない。それなら、これは。
 半分だけ開いたままの窓から空を見上げる。風の音はまだ聞こえなかった。





 短いブーツの紐が風に煽られてパタパタと音を立てている。髪が耳を掠める音と木々の揺れる音が輪唱のように追いかけあい、刹那はふっと息をついた。
 持ってきたカップにはハンカチをかけているが、風で飛ばされないよう抑えているせいで両手が塞がってしまっている。息を吐き出した拍子に、風に煽られた髪が一房口の中へと入り込んできた。俯いて顔を振ったが、何本かは唇に張り付いてしまった。
 短いため息と共にそれをはがすことを諦め、一歩一歩森へと進んでいく。葉擦れの音が一層大きく刹那を包み込んでいった。
 木々の合間にはやはりやせ細った下草がぽつぽつと倒れていて、それ以外はわずかに湿り気を帯びた固い地面に覆われている。時折枯葉のようなくすんだ色合いが見られるが、枯れて色を濃くしたのか腐食したのかは分からなかった。
 知ってるかい、刹那。枯れた落ち葉を湿り気のある場所に積み重ねるとね、ここでは難しいけど、でも、森の奥ならうまくいくと思うんだ。うまく出来たら、一緒に採ろうよ。どうかな。刹那。
 優しい声と微笑む男の姿を思い浮かべる。彼がそう言っていたのはもういくらか前のことだ。うまくいったのかどうか聞いていないけれど、彼が提案していた場所へと足を向けた。
 ざりざりとブーツの底が足音を立てる。気配を消す必要はなかった。こうして存在を明らかにしたほうが彼が自分を見つけてくれる可能性がある。第一、ここには外敵がいないのだから神経をとがらせるべき対象もいない。
 それでも、遠くから聞こえた音を刹那の鋭敏な聴覚は聞き逃さなかった。顔を上げ、音の出所へと目を向ける。息を止め、まばたきをとめ、じっと見つめる。木々の向こうで何かが動く気配がする。
 カップを放り出すと、足音を消して走り出した。
 薄暗い森を駆け抜け、視界が明るい色を取り戻していく。落ち葉を踏み、消しきれなかった足音がざくりと鳴って、けれど刹那の目は一点の異物を見つめていた。
 開けた視界には透明度の高い湖が広がっている。すり鉢状になった対岸は険しい斜面になっており、到底人の入り込む余地はない。実際に目にしたことはないが山を越えた反対側も荒れ果てた岩山なのだと聞いた。だからこの地は不可侵を保っているのだとも。
 刹那が立つ此岸はやや急な下り坂ではあるものの、降りられないことはない。湿地を拓いた彼は毎日水を汲んでいるし、その証拠に少ない緑の上に一本の線のような道が出来ている。一旦足を止めていた刹那は、迷わずその道を駆け下りていった。

「ロックオン! ロックオン!」

 湖はほぼ楕円形に広がっており、中央は向こう岸から続く中島が小山のようにそびえている。その中島から此方の岸までのほぼ中間点に、橙の球体が浮いていた。刹那が聞きつけた音はそれが発する機械音声だったようだ。

「Unknwon接近! Unknwon接近! ロックオン! ロックオン!」

 アンノウン。未知の要素。
 機械の発する言葉を反芻して理解する。しかし、「ロックオン」というのが分からない。狙いを定めているのか。それなら近づくのは危険だ。けれどその機械は「ロックオン」という言葉を繰り返すばかりで攻撃を仕掛けるそぶりは見えない。それに。

「…………あれは……」

 球体のすぐそばに、大きな何かが浮かんでいた。人だ。
 一瞬目を見張り、刹那は駆ける足を速めた。転げるように湖面へ駆け下り、迷いなく飛び込む。湖は岸のすぐそばから深くなっており、ざぶざぶと澄んだ水を掻き分けて泳いでいく。上着だけでも脱いでくるべきだったと思いながら浮遊物へと近づいた。橙の機械はまだ「Unknwon接近! ロックオン!」と同じことを繰り返している。
 彼は、見たことのない色を持っていた。
 土より明るく、木の幹よりは鮮やかで、木の実よりもやわらかな、ゆるくクセのついた髪。水を含んで半ば漂い、半ば頬に張り付いている。仰向けに浮かんだ身体は、重心の下がる足や指先が沈んでいた。よく見れば肩口を機械の細い腕が掴んでいる。橙の球体機械が、彼の顔面が沈むことだけはないよう保っていたのだろうか。そうでなければおぼれた人間が仰向けに浮かんでいるのは考えにくい。
 機械の存在が気にはなったが、刹那はそのまま浮かんでいるものに触れた。掴んだ腕は大人の男のもので、鍛え上げられた肉体だと分かる。大柄だが細身の長身で、閉じたまぶたはピクリとも動かない。掴んだ刹那とは一目で人種が違うと分かった。肌がとても白いのだ。水死体だから白いのかとも思ったが、掴んだ腕は腐敗した肉の感触ではない。冷たく冷え切っているが、強く握ると皮膚の下に血の流れを感じた。
 生きている。
 首に巻いたままだった赤いターバンを外すと、男の背中から両わきに通した。軽く引いて外れないことを確認すると、立ち泳ぎのままターバンを引っ張った。
 ゆらりと男の身体が流れてくる。距離をとり、再び引く。一度勢いのついた荷はするりと刹那の掻き分けた水を追ってきた。
 何度も同じことを繰り返し、少しずつ岸へと戻る。橙の機械も刹那を手伝うように男の肩を引いていた。

「刹那!」

 男を引く動きは止めずに岸を振り返ると、背の高い男が岸に立っている。しばらく困ったように辺りを見渡していたが、結局腿の半ばほどまで水に浸かりながら駆け寄ってきた。知らず、刹那は安堵のため息をつく。いくらか表情を緩めると、泣き出しそうにも見える困り果てた青年の名を呼んだ。

「アレルヤ」
「どうしたの、それ……」

 言葉の先を飲み込んだアレルヤにターバンを渡し、身体の疲れを感じながら応える。

「まだ生きている」
「うそ、本当に?」

 浮かぶ男の顔をこわごわと見下ろし、アレルヤはため息をついてターバンから手を離した。直接腕を脇の下に差し込んで、岸まで引きずりあげていく。
 ターバンを拾い、アレルヤを追って泳ぎ、足が着くところまできて刹那は少し乱れた呼吸に胸を押さえた。
 アレルヤやティエリア以外の人間を実際に見るのは、ほとんど初めてだ。触れたことなんて記憶にもない。
 ふと息をつくと、足元で球体機械が水面に揺れている。それをひょいと抱えあげて、疲れた足を岸へと動かした。伸ばしていた腕をいつの間に収納したのか、まるきりボールのような形になったそれは一言もしゃべらない。壊れたのだろうかと小さく首を傾げると、目と思わしき部分が一度赤く点滅したように見えた。

「ホントだ、生きてる。奇跡だね」

 しゃがみ込み、地面に横たえた男の口元に手を当てて呼気を確認していたアレルヤは「信じられない」と呟きながら刹那を見上げる。その顔は困り顔から呆れと憂鬱に変わっており、案の定彼の口からは刹那の予想通りの台詞が出た。

「ティエリアに叱られるよ。また余計なものを拾って、って」
「……連れて帰る」
「ああ、うん……分かったよ……」

 深くため息をついたアレルヤが背負い上げた男を、屋敷に着くまでずっと目で追っていた。
 きれいな男だった。







(09.05.14.)