一瞬だけ見せた表情 音声通信で呼び出されて来てみれば、当の本人はグラスをあおっているところで、ベッドサイドのグラスからも彼の呼気からも、アルコールの匂いがしていた。 「飲んでいるのか」 「景気づけに、ちょっとな」 呼び出しておいて景気づけとは随分なことだ。酒の勢いを借りなければ言えないようなことなのだろうか。少しの呆れと警戒を込めて立ち尽くしていると、ベッドに座り込んだ男に手招かれた。扉を開けた小さな彼の相棒は、『ゴユックリ!』と言いながら跳ねて出ていってしまう。背後で扉が閉まるのを見届け、刹那はため息をついた。 「用件は?」 「まぁいいから、こっち来いって」 「用がないなら帰る」 「用ある! あるって! あるから頼んでんだろぉ」 頼むよ刹那ぁ、とロックオンが間延びした声を出す。いつもの飄々としたそれでなく、どこか甘え、しな垂れかかるような舌足らず具合が気持ち悪い。自分より体も歳も大きな男がベッドでごろごろしながらそれをしているのだから本当に得体が知れなかった。 ため息を飲み込んで目を閉じる。こんなことならハロを見送るのではなかった。とにかくこの男はしつこいのだ。ハロであれ何であれ、刹那の他に彼の気を紛らわすイケニエを用意しておくべきだった。今すぐ背を向けてこの場から出て行くのは簡単だが、そうしたら明日になって彼の絡みがひどくなるのは想像に難くない。 やたらと構ってくるのも鬱陶しいが、無視した後、それを非難せずに優しく優しく扱われるのが耐えられなかった。わざと無視したのにそれをなじられもしない。少しは苦言を呈せばいいのにそれもしない。ただただ苦笑いで押し流して、さらりと手を伸ばしてくる。 無視することで苛立って離れてくれないのであれば抵抗する意味がない。それで最低限は反応することにすると、それでも存外な態度であるにも拘らず彼はたいそう喜んでいた。それはもう、満面の笑みで。 刹那にはロックオンの考えていることはさっぱり分からない。仲間同士のコミュニケーションの枠から逸脱していることは明らかで、けれど刹那はロックオンに好かれるようなことは一つだって心当たりがない。 体のことを気遣ってくれるのは、わずらわしいが有り難いことだと今は思っている。世界共通言語や端末の操作などを覚えるのに手一杯で栄養学がどうこうといったことには疎いから、肉や魚だけ食べていては栄養分が身につかずに出て行ってしまうのだとか、そういう話はロックオンの噛み砕いた説明を受けるまではよく分かっていなかった。好きでないものでも食べなければ大きく育たないし、体が育たなければMSの操縦や柔軟な思考にも影響があるらしい。半信半疑でうろんな視線を返しても嫌な顔一つせず、他のやつにも聞いてみろよとその場にいたメンバーに話を振ってくれもした。刹那が自分から尋ねることはないだろうと分かっていてそうしたのだろう。 そう、ロックオンはずいぶんと刹那について詳しい。刹那がどういう行動を示すか、どんな返答をするか、何となくではあるけれど予測が出来ているらしい。だから先回りして色々とアドバイスもフォローも出来るのだろう。つまりそれだけ気を配って、こちらを気にしているということだ。 「せーつーなーぁ」 「だから、何だと聞いてる」 悪いやつではないことぐらいは理解していた。思っていることをうまく言葉で伝えられない刹那の意を酌んでくれるロックオンの存在には確かに助けられていた。鬱陶しくて、わずらわしいのも確かだけれど。 嫌う理由は、ひとまず今のところはこの距離感のなさくらいなものだ。それだってもうずいぶんと慣れさせられてしまった。 はあ、とため息をついて刹那は扉に背を預けた。 相手がベッドから手招いているということに何となく嫌な感じがする。いつだったか「一緒に寝ようぜ」と引きずり込まれたときのような。 それは刹那が寝付けずに艦内をふらふらしていたときだから、今思えばあれは彼なりに安眠をもたらそうとしてくれたのだろう。手段がもう少し違っていればいいのにと思いつつ、今回だって音声通信で「何の用か」と詰問することは出来なかった。とりあえず出向くくらいは、と思ってしまっている時点でもうロックオンに毒されてしまっている気がする。 ロックオンはベッドに腰掛けたまま、空になったグラスをサイドテーブルへ戻した。その手つきものろりと遅く、ずいぶん酔いが回っているのだろうと推察できる。 「せーつーな」 「用があるならここで聞く。ないなら部屋に戻る」 「んだよ、この聞かん坊めぇー」 聞こえよがしに大きくため息をついたロックオンは「よっこいしょお」と掛け声をつけて立ち上がり、おぼつかない足取りで近づいてくる。酒気が濃くなり顔をしかめたが、ロックオンはいつもと変わらないふんわりとした笑みを浮かべていた。 ふっと息を吐いて視線を下げた刹那は、ずいぶん近いところにロックオンのつま先を見つけた。それと同時に頭上に影が落ちる。反射的にぞわりと駆け上がった悪寒に身をこわばらせて顔を上げると、鼻先が触れるほど近くにロックオンの唇が見えた。 形のいい、薄い唇が弧を描いている。 「オレんとこ来てりゃ、逃げ道あったのに」 吐息まじりに囁く声が鼓膜を揺らし、刹那はゆっくりと視線を上げた。目だけでは追い切れず少し顔も上向けて、ようやく翡翠の瞳に辿り着く。ダークグリーンが細められ、光彩は陰り、寒気がした。 「せつな」 「……なんだ」 内心の動揺を押し殺し、問い返す。仕留めそこねたターゲットに攻守を奪われたような、底知れない嫌悪感が纏わりついて離れない。 嫌悪? いいや、違う。 これは、そう、畏怖だ。 ロックオンの瞳から視線をそらせないまま、刹那は視界の外で何かが近づく気配を感じていた。触れられる、そう思うのに、身じろぎひとつ出来ない。 「どうする、刹那? 捕まっちゃったぜ」 甘く誘う囁き声が降り注ぐ。ロックオンの長い腕が刹那を囲い込んで、片方の手がそろりと首筋に触れた。ロックオンの目を睨むように見据えたままの刹那の、のどとあごの間のやわらかな部分をグローブの先が撫でていく。それでまた、息苦しくなった。 呼吸やまばたきの仕方を忘れてしまったような錯覚に陥る。 思考のすべてを奪われる。 ロックオンに。 「……なーんて、な」 こくんとのどを鳴らして、ロックオンが身を引いた。絡めとられるような視線がなくなり、刹那の意識も急に引き戻される。胸の鼓動は早まっていたけれど、呼吸もまばたきも出来た。少しぎこちないが、身動きも取れる。 今のは一体なんだったのかと憤る寸前に、離れていくロックオンの横顔へ視線が吸い寄せられた。 「……なんだ」 驚き、揺らいだのは刹那のほうだ。それなのに、仕掛けた彼のほうが顔色を悪くしている。逃げるように顔を背けたのに、完全には背を見せてもいない。力なく下がる手は握り締めることさえかなわず小さく震えている。 こわいと思った。その刹那よりも、もっとひどくこわがっている。怯えている。 「今のは、なんだ」 「――冗談だよ、じょーだん」 「自分の嘘をそこまで恐れるのか」 血の気を失った横顔が、揺らぐ瞳が、ひたりと凍りついた。 いけない。 逃げられない。 役立たずの警告が刹那の目の奥でちかちかとまばたく。 「せつな」 振り返ったロックオンの顔には、疲れきったような苦い笑みが浮かんでいた。掠れた声は今にも途切れてしまいそうに心もとない。泣きそうだ、と不意に思った。 「こわいんだ。酒に頼ったって、それでも、おれは、」 こわいんだよ、と言ったであろう呟きは床にこぼれて、見えない涙もいっしょに滴り落ちた。そう、感じた。 部屋の明かりが落ちていたら、きっと色々見ずに済んだ。それが幸か不幸か、刹那には分からない。 「ロックオン」 「……うん?」 震える唇を噛んでいつものやさしい笑みを作ろうとするロックオンを見据え、刹那はそこから一歩も動かなかった。 「用があるなら、ここで聞く。ないなら部屋に戻る」 「……ああ、わかったよ。悪かった、もう――」 「ロックオン」 ロックオンの視線は相変わらず床を這いずり回っている。目を合わせないのは怯えのせいか。いつも散々覗き込んでおきながら、手を引いてつれ回しておきながら、こんなときだけうろうろと逃げ惑っている。 ばかばかしい。刹那にはそうとしか考えられなかった。だから、言葉を続けた。 「用があるなら、ここで」 ロックオンの瞳が、すがるように刹那に絡みついた。また身動きが取れなくなっていくのを感じながら、刹那は、揺らぎながら光を取り戻す緑を見据える。 陰りが消えていくのは、彼がいつだって光るものを追い求めているからだ。明るく振舞うのも、きっと。それならその姿を貫けばいい。成層圏まで狙い打つというのなら、何だって狙い定めたらいい。 ふらりと一歩、近づいてくる。手を伸ばしながら、けれど逃げ出そうと怯えて、刹那へと近づく。 「用はなんだ? ないなら、俺は部屋へ戻る」 「――いいのか、刹那」 「帰ったほうがいいのか?」 再び腕の中に囲われて、ロックオンを見上げる。ロックオンは本当に疲れきった、あるいは呆れたような、そんな気の抜けた表情を浮かべて深呼吸をした。 「お前、知らないぞ、ホントに」 悪いやつ、と自分を棚に上げて苦笑したロックオンの緑の目が、ゆっくりと近づいてくる。 仄かに香る酒の匂いを吸い込みながら、背中に感じる扉の冷たさが心地いいと、そんなことを考えていた。
(09.06.29.)
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