ハロ





 両手に収まるほどのオレンジ色の球体が、ベッドのわきで跳ねている。AIで動くロボットなのだとは理解していたが、誰にでもはっきりと分かる個体差もあってただの機械だと割り切れずにいる。少なくとも、自分と同じように彼を案じていることは確かだ。口の重いこちらには言えない言葉を、つたないながらもポンポンと投げかけてくれる。
 オレンジのハロが跳ねる。ロックオンの目がそれを追って上下する。その目は一つだった。

『ロックオン! ロックオン! ダイジョブ? ダイジョブ?』
「ああ、もう大丈夫だ。心配かけたな」
「……まったくだ」

 思わず漏らした呟きにロックオンは少し驚いて、それから肩をすくめてウィンクを寄こした。

「刹那が言うほどなら、よっぽどだな。悪かったよ」
「勘弁してくれ。本当に……血の気が引いた」

 口にしたのは本当のことだ。デュナメスが被弾したときも、ロックオンが集中治療室へ運ばれていったときも、治療を拒んで出てきたときも、本当に生きた心地がしなかった。戦場で砲撃をぎりぎりでかわしたときよりもずっと体が冷えた。ざわざわとして落ち着かず、平静であるのに気を抜けば思考は散漫とする。
 動揺しているのだと、はっきり分かった。ロックオン・ストラトスの負傷は、それだけ衝撃的で、恐ろしいことだった。

「本当ならまだカプセルに入っていなければならない。分かっているのか?」
「わぁーかってるよ! 無理言って出てきて、それで刹那がご立腹なのも分かってるさ」
「分かっているなら戻れ」
「それは出来ない。言っただろ、刹那」

 自室のベッドで横になっているロックオンへ、労わることもせず延々と再生治療カプセルへ戻るよう言ってはいたが、この男は戻らないだろうと察しはついていた。それでもそれ以外に掛ける言葉が見つからないのは、きっとロックオンが言うように腹を立てているからなのだろう。
 みんなの頼みを聞かず治療を拒んだ彼にも、有無を言わせず押し込めてしまうことの出来ない自分にも、この怪我を負わせた敵にも、そして言葉に出来ない胸の奥のわだかまりにも、等しく腹を立てていた。
 きっと混乱しているのだ。本当にびっくりしたから。
 ソレスタルビーイングへ入るまでにも目の前で人が怪我をすることはあった。幼い自分を庇って死んだ仲間もいた。地雷を踏んで下半身を根こそぎ吹き飛ばされた者もいた。ろくに手当てが出来なくて腕をまるごと一本壊死させた者もいた。戦争をするというのは、そういうことだ。
 ベッドの隣に置いたイスは部屋に備え付けられたもので、マイスターたちの部屋にはそれぞれ同じものがあるのに、座ってみると自室のそれとは違っていた。このイスは長くロックオンが使ってきたもので、だから同じイスは二つとないのだろう。部屋の家具や調度品もそうだ。同じデザインのものに囲まれて暮らしていても、一つとして同じでない。
 そんな当たり前のことを今さらぼんやりと考えて、胸の重苦しい空気を吐き出す。部屋の照明は明度を絞られたままで、薄暗い部屋の中はとても息が詰まる思いがした。

『セツナ、セツナ!』
「ハロ?」
『セツナ、セツナ!』

 下がりかけていた顔を上げると、ハロがぽんぽんと足元で飛び回っていた。名前を呼ぶばかりで何がしたいのかも分からない。困惑していると、ベッドの上からロックオンが手を伸ばした。

「お前が暗い顔してっから心配したんだろ。なあハロ」
『セツナ、セツナ!』
「ハロは刹那が好きだなぁ」
『ロックオン、スキ! セツナ、スキ!』
「ハハハ」

 伸ばされた手は、こちらまでは届かなかった。それでもロックオンは手を伸ばしたまま、こちらを見ていた。目を細めて眩しそうに、微笑ましげに笑っている。
 右目を覆う黒い眼帯さえなければ、もしかしたら一緒に笑えたのかもしれない。
 伸ばされた手を取って両手で包み込んだとき、ロックオンは少し驚いて目を大きく開き、それから気の抜けるような満面の笑みを見せていた。






 戦渦が収束を見せ、表面上、世界は平穏を迎えている。ソレスタルビーイングは大きな痛手を受け、傷を癒し力を蓄えるため水面下での活動を続けていた。輸送艦であり母船であったプトレマイオスを失った今、宇宙では第二の母船を造船中で、生き残ったクルーの半数以上が造船施設を含む秘密基地ラグランジュ3に滞在している。
 内、実戦部隊であったプトレマイオス搭乗クルーの幾人かが地上へと降りてきていた。自分を含めても六人しかいなかったが、戦術予報士であったスメラギ・李・ノリエガはすぐに姿を消してしまった。
 アイルランドの地に佇み、ラッセとティエリアは重苦しい表情を浮かべ、フェルトは泣き、イアンはフェルトを気遣って並んでいる。数歩後ろから、その様を眺めていた。
 葬列は短かった。遺骨もなく、その死さえ非公式で、ロックオン・ストラトスであった男は名前だけが墓に刻まれた。存在だけは聞いていた両親と妹の名と共に、ニール・ディランディの名が付け足された。
 そのいずれの死にも間接的に関与している。手を下してはいないが、変わりない。詫びてどうなることでもなかったが、とうとう詫びる相手さえ喪ってしまった。

「刹那」

 黙祷していたティエリアが振り返り、名を呼ぶ。視認していたし、聞こえてもいた。けれど何も言えず、反応もせず、ただじっと見つめていた。
 手の中のハロがパカパカと耳を開閉して、ティエリアに応えている。ティエリアはしばらくこちらを見ていたが、やがて首を振って墓前に膝を折った。供えた花は墓を埋め尽くすようにあふれ、フェルトはもって来た花束に涙を落としていた。

『セツナ、セツナ』

 くるりと回って見上げたハロが、目を赤く点滅させながら呼びかけてくる。ハロだけでも、あの輪に加えよう。そう思って地面へ下ろしてやったが、ごろごろと足元を転がるばかりで離れていかない。本当なら機密の詰まったハロを地上へ連れてくるべきではないけれど、彼の優秀な相棒であったからこの場へ連れてきたほうがいいと思ったのに、一向に墓前へ行かない。
 墓所はとても寒く、空は灰色の雲が垂れ込んで今にも雨が降り出しそうだった。空を見上げ、ハロを見下ろし、詰めていた息を吐き出すと白く染まって空へ昇っていく。

――アイルランドは寒い国でな。だから俺は、寒いのは平気なんだ。

 むき出しの指は少しずつ体温を奪われ、つめ先は感覚がない。ロックオンが見たら怒るだろうと思いながら、指先を握りこむ。
 もう手袋を押し付けられることはない。薄着をするなとコートを羽織らされることもない。冷てぇなあと困ったように笑いながら冷えた指先を握られることもない。寒いのは平気だといいながら寄り添われることも、温かな腕の中に招かれることもない。

『セツナ、スキ、セツナ、スキ』

 ハロが足元で言う言葉に戸惑い、抱き上げた。たった今、長い付き合いの相棒が墓に眠った場所だ。名を呼ぶなら、彼の名をいうべきだろう。
 ハロ、と呼びかけるとまた耳を開閉させ、目を明滅させる。

『ロックオン、スキ、セツナ、スキ』
「ハロ、ロックオンに言ってこい。ティエリアのところへ行って、」
『ロックオン、スキ、セツナ、スキ』
「ハロ、違う」
『ロックオン、セツナ、スキ、スキ』
「ハロ」

 壊れてしまったのだろうか。このロボットはたいそう彼に懐いていたから、喪失の悲しみで回路が狂ってしまったのか。
 言葉を探して黙り込むと、ハロは弱々しく耳を少しだけ動かした。

『セツナ、セツナ』
「ハロ、お前があいつを好きだったのは、みんな知っている。だから、行ってきたらいい」
『セツナ、デンゴン、デンゴン』

 さきほどまでは口にしていなかった単語にハッと息を飲み、手の中のハロを見下ろす。ハロの目が赤く明滅している。

『ロックオン、セツナ、スキ』
「――ハロ、それは」
『ロックオン、デンゴン。ロックオン、スキ。セツナ、スキ』
「…………っ、」

 呼吸が引きつり、のどの奥で小さな音を立てた。

 ――刹那

 呼ばれた気がして、顔を上げる。白い花で飾られたケルト十字に目的の人はいない。幻もない。十字の下の墓には遺体すらない。

 ――刹那

 振り返り、その姿を探す。
 長身に茶の髪。ウェーブの掛かった髪は湿気が多いと跳ねて大変なのだと言っていた。いつか写真で見たどこかの海のような翠の目は時に厳しく、時に優しく細められる。いつだって深い愛情に満ちていた。慈しみ、育ててくれた。足りないものを、知らないことを、たくさんたくさん教えてくれた。嬉しいときには笑う、悲しいときには泣く。そんなことさえ彼が教えてくれた。優しさの示し方も、人と人との繋がりも、何もかも。
 今の自分を作り上げるたくさんの要素の中に、彼の存在が満ちている。

「ロックオン」

 アイルランドの墓所に人影はまばらで、寒々しい空気の中、消え入りそうな声が出る。己の声音はこんなだっただろうか。寒くてのどが絞まっているのか、それとも。それとも。
 墓へ視線を戻すと、しゃがみこんだままティエリアが、フェルトが、こちらを見ていた。ラッセもイアンもいるが、そこにロックオンの姿はない。
 葬列は短かった。
 ロックオン・ストラトスであった彼の、ひっそりとした葬列は。

『セツナ、セツナ』
「……ハロ」
『セツナ、スキ、セツナ、スキ』
「……ハロ、っ」

 やめてくれと言うことも、耳をふさぐことも出来なかった。
 目の前で見たはずの喪失を、理解はしても心が受け入れられていなかった身には、何も出来ない。

『ロックオン、スキ、セツナ、スキ』
「ハロ……ロックオンに、」
 伝言を、と絞り出して、けれどそこでぐにゃりと視界が歪み、焦点がずれた。オレンジの球体がにじんでいく。
 取り落とさないよう握り締めたハロの個体は、アイルランドの空の下で冷たく冷え切っていた。







(09.04.20.)